1980年に、日本全土が「感染」した「YMOショック」とテクノ・ブームは、プラスチックス、一風堂、ヒカシュー、P-MODEL等々と共に時代の寵児として取り扱われる。
1981年に入り、YMOに影響を受けたロンドンの若いミュージシャンがマガジンやウルトラヴォっクスという影の仕掛け人を伴い「ニュー・ロマンティクス」というムーヴメントを創り出す。
・・・そして、1982年だが、元々、白人に拠るファンクを目指していたア・サーテン・レイシオなどは居たものの、そのホワイト・ファンクをもっとポップな形で表現したり、そこにラテンやハイチなど南洋の音楽を絡めていくといった「ファンカラティーナ」というムーヴメントが出てくる。
***
ABC、ヘアカット100、カルチャークラブ、モダンロマンス、ファンカポリタンなどのバンドが出現してきた。
この頃、こういうムーヴメントに影響を受けたり、融合・接近をしていく周囲の流れもあった。
スパンダー・バレエも、1982年は、おファンクしていましたなあ。
南洋のコンパス・ポイント・スタジオを拠点とするアイランド・レコードがたくさん、この明るいムーヴメントと相乗効果を発揮しながら、グレイス・ジョーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、パラゴンズ、ブラック・ウフル、バリー・レイノルズ、B-52’S等々にぎやかにそれぞれのアルバムを出していた。
この年の春・夏は、まさに「貿易風」を感じながら、ポップなファンク、ラテン、レゲエ、ハイチ、そして、ファンカラティーナを聞きながら、独り部屋でノリノリになりながら、海の彼方にあるトロピカルな色の空と海の世界を想像しながら、うっとり音楽を聴いていた。
この頃発売されたブロンディの「夢見るナンバーワン」も、明らかにこういう音楽の流れに乗った心地よさを求めた名曲だった。
この頃のデボラ・ハリーはジャケットで、ダチョウのカラダのようなふわふわで方々に長く伸ばした髪をしていた。(要は、ドリフターズで爆発後にカトちゃんや志村けんが口から煙吐いた時のような髪の毛)
また、夏に発売された一風堂の「ナイト・ミラージュ」も、ファンカラティーナしていました。
***
そう思えば、なんて1982年という年は、ポップ、かつ、様々なバンドが出てきた豊作の年だったのだろうか!
今更ながら驚く。
今上げなかったバンドとしてよく聴いたものとしては、ソフト・セル、チャイナ・クライシス、アソシエイツ、ヤズー、デペッシュ・モード、ローリー・アンダーソン・・・・いくらでも出てくるだろうが、今浮かぶのだけでもこれだけあるのだから、1982年のニューウェイヴが如何に華多き年だったかわかる。
そういえば、JAPANが解散したのも1982年でしたね。
あと、こないだも言った「YENレーベル」の発足も1982年だし、驚異的に目まぐるしいメリーゴーランドのような年だったんですねえ。
(もう、あんな夢のような日々は来ない)
***
その多くは、今CDとして、再び聞く事が出来る時代となったが、実は、そんな中でもCD化を阻まれたバンドというのは色々ある。
モダンロマンスはCD化されているのに、ファンカポリタンやブルー・ロンド・ア・ラ・タークなどは全く名前すら消えてしまった。
特に、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは人気者で、僕もカセットにエア・チェックして「アイ・スパイ」やこの「ミー&ミスター・サンチェス」を踊りながら聴いていたものだが、CD化をされる様子が全くない。
ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは、その後、分裂等を起こし、ブルー・ロンドというバンド名に変わったり・・・結局は消えていく。
自分はどうしても聴きたかったので、レコード盤を必死に探したが、未だ、シングル盤しか手に入っていない。
確かにモダン・ロマンスに比べると地味であったかもしれないが、音楽そのものは、モダン・ロマンスより面白かった。
早期CD化を望む。
1981年に入り、YMOに影響を受けたロンドンの若いミュージシャンがマガジンやウルトラヴォっクスという影の仕掛け人を伴い「ニュー・ロマンティクス」というムーヴメントを創り出す。
・・・そして、1982年だが、元々、白人に拠るファンクを目指していたア・サーテン・レイシオなどは居たものの、そのホワイト・ファンクをもっとポップな形で表現したり、そこにラテンやハイチなど南洋の音楽を絡めていくといった「ファンカラティーナ」というムーヴメントが出てくる。
***
ABC、ヘアカット100、カルチャークラブ、モダンロマンス、ファンカポリタンなどのバンドが出現してきた。
この頃、こういうムーヴメントに影響を受けたり、融合・接近をしていく周囲の流れもあった。
スパンダー・バレエも、1982年は、おファンクしていましたなあ。
南洋のコンパス・ポイント・スタジオを拠点とするアイランド・レコードがたくさん、この明るいムーヴメントと相乗効果を発揮しながら、グレイス・ジョーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、パラゴンズ、ブラック・ウフル、バリー・レイノルズ、B-52’S等々にぎやかにそれぞれのアルバムを出していた。
この年の春・夏は、まさに「貿易風」を感じながら、ポップなファンク、ラテン、レゲエ、ハイチ、そして、ファンカラティーナを聞きながら、独り部屋でノリノリになりながら、海の彼方にあるトロピカルな色の空と海の世界を想像しながら、うっとり音楽を聴いていた。
この頃発売されたブロンディの「夢見るナンバーワン」も、明らかにこういう音楽の流れに乗った心地よさを求めた名曲だった。
この頃のデボラ・ハリーはジャケットで、ダチョウのカラダのようなふわふわで方々に長く伸ばした髪をしていた。(要は、ドリフターズで爆発後にカトちゃんや志村けんが口から煙吐いた時のような髪の毛)
また、夏に発売された一風堂の「ナイト・ミラージュ」も、ファンカラティーナしていました。
***
そう思えば、なんて1982年という年は、ポップ、かつ、様々なバンドが出てきた豊作の年だったのだろうか!
今更ながら驚く。
今上げなかったバンドとしてよく聴いたものとしては、ソフト・セル、チャイナ・クライシス、アソシエイツ、ヤズー、デペッシュ・モード、ローリー・アンダーソン・・・・いくらでも出てくるだろうが、今浮かぶのだけでもこれだけあるのだから、1982年のニューウェイヴが如何に華多き年だったかわかる。
そういえば、JAPANが解散したのも1982年でしたね。
あと、こないだも言った「YENレーベル」の発足も1982年だし、驚異的に目まぐるしいメリーゴーランドのような年だったんですねえ。
(もう、あんな夢のような日々は来ない)
***
その多くは、今CDとして、再び聞く事が出来る時代となったが、実は、そんな中でもCD化を阻まれたバンドというのは色々ある。
モダンロマンスはCD化されているのに、ファンカポリタンやブルー・ロンド・ア・ラ・タークなどは全く名前すら消えてしまった。
特に、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは人気者で、僕もカセットにエア・チェックして「アイ・スパイ」やこの「ミー&ミスター・サンチェス」を踊りながら聴いていたものだが、CD化をされる様子が全くない。
ブルー・ロンド・ア・ラ・タークは、その後、分裂等を起こし、ブルー・ロンドというバンド名に変わったり・・・結局は消えていく。
自分はどうしても聴きたかったので、レコード盤を必死に探したが、未だ、シングル盤しか手に入っていない。
確かにモダン・ロマンスに比べると地味であったかもしれないが、音楽そのものは、モダン・ロマンスより面白かった。
早期CD化を望む。