しんどい夜だから、夢に満ちた『或る日』を想起していた。
頭にあるまま自動筆記をつらづらと……。
***
1980年YMOの確固たる音楽を(結果的には)世界に広めた第2期ワールドツアーは、皮肉にもアルファレコードの強要であった。
そのプラン段階で強要に対してYMO脱退を叩き付けた坂本龍一。
最終的にアルファレコードとの戦いの結果の交換条件が「ソロ・アルバムを何の制限も無く1枚やりたいように作る」ことで決着し、その産物が「B-2UNIT」となった。
少年だった自分は、そんな裏の闘争を知らぬなか、夕方の衛星中継でのテレビ・ライブ生放送に興奮しながら、テレビとラジカセをジャックで結び、生放送の録音の用意を着々とした。
まだ日の明るさが残る下町のテレビの前にひざまつき、刻を待つ。
時差のある現地時間は夜・その刻々とライブが迫るざわめきに同期化していた。
自分にとり、東京が世界の発信基地となったその瞬間の瞬きそのものだった。
素晴らしくシンプルでカッコイイ、ステージセット。
真ん中奥に鎮座した憧れの大きなコンピューターの『たんす』とそれを神妙に全体コントロールする名参謀=松武秀樹。
それを中心に均等に配置された、幸宏オリジナルデザインのYMOシャツに黒のパンツ姿で統一された6人のしゅっとした姿。
そして、腕に巻いた真っ赤なスカーフ。
後列、左から大村憲司・松武秀樹・矢野顕子
前列、左から坂本龍一・幸宏・細野さん
全てがカンペキだった。
***
……松武秀樹のチューニングするパルス音が、次第に次第に高音に高まりながら、聴衆者を静寂と緊張に導いていく。
次に背後でうごめく疾走音・泡立つ音。
そして、リピートしながら崩れ落ちるワーンワーンワーン…という音。
そして、このツアーの最初の曲に細野さんが決めた『ライオット・イン・ラゴス』が始まった…。
あえてノイジーなこの曲を選定したプロデューサー細野さん、YMOという役割を演じねば為らなかった3人の、ささやかな謀反の一端…。
***
元来、温度等環境に影響されやすい巨大コンピューター=『たんす』をステージに持ち込む発想自体無理があった中、YMOは初めてそれを決行する。
『ライオット・イン・ラゴス』の途中から、このコンピューターが暴走し・停止する様が、音の旋律からわかった。
大舞台での中枢基幹の停止を察知して、必死に、ライブ慣れした矢野・細野・坂本のキーボードがその場のインプロビゼーションでカバーに回る。
そんな緊迫感の中の事故。
そんな事件すらも、この歴史的ライブの一側面を成しており、今では懐かしく思う。
***
ライブの途中で、現地で芳村真理が騒がしく大きくズレた「大衆的」粗い口調でYMOそれぞれにインタビューする。
細野さんは、芳村真理のくだらない質問に一瞥冷笑し、適当にあしらった。
そのライブのカセットテープは30年後の今も残る。
***
1980年とは、諸手を挙げて拍手喝采の「YMOイヤー」で、日本国じゅう何処に行ってもYMOが流れていた。
3人はまともに外を歩く事すら出来なくなり、坂本龍一には自分の名を呼ぶ幻聴が鳴り出す。
元々ワールドツアーに前向きではなかった3人が、逃げ場無く陥った『YMO』という呪縛。
数ヶ月に及ぶ、1980年後半~年末の武道館凱旋公演まで。
日々同じ演奏での世界行脚に次第に疲弊しノイローゼに傾いていく3人。
アルファレコードと大衆からのプレッシャー(公的抑圧)が、3人の内的抑圧の水位を上げていく。
1980年の末には大衆側の「みんなのYMO」と「3人が進もうと思う道」に大きな乖離が既に亀裂として生じていた。
繰り返す日々の中で、早く次のアルバム・異なる地点に向かいたいという心境に3人の意志は収斂していく。
***
『モンスター=YMO』という化けものとなってしまった状況・アルファレコードへの復讐・ちゃぶ台をひっくり返す転覆行動に出る事を、プロデューサー細野さんの思惑を核にしながら1981年がスタートする。
大衆もアルファレコードも「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー2」を期待していた。
そこに、「Bー2UNIT」的要素を細野さんが導入する。
(まるで今、自分らの仕事チームがやっている様を思い出してしまった。
あるタイムリミットに走りながら、各パーツを分解作業しつつ、相互連携し、途中で合体し、最終リミットに仕上げる。)
1981年3月21日が新譜発売日と設定される。
そこから逆算していく。
時間が無いので、AB面1~4曲を約4分30秒、各面最後の曲だけを約5分20秒と設定し、各自に細野さんが「こんな曲」と割り当て、制限時間が来たら一気に仕上げてカットする、という荒削りな手法。
3人が揃わなくとも各パーツを分解し、ドラムまでを分解し、ひたすらキコカコ鳴るパーツに合わせて、スタジオへの入場者がその場で作り、去っては入りを繰り返す。
各自が詩を日本語で書き、スタジオ内で作っている途中トラックのテープと共に、ピーター・バラカンに差し出し、スタジオの外でピーターがそのテープを聴きながら、詩が曲に乗るような英訳をする。
凄まじい殺人的作業スケジュールの中の進行状況。
ノイローゼ状態がひどくスタジオにも来なくなってしまった坂本龍一を抱えながらも、ひたすら3月21日に向かって、時を刻んでいく。
最終期限を向かえ、プロデューサー細野さんが坂本に要求していた曲は出来ず、「千のナイフ」をノイジーにセルフカバーする形ではめ込む形とした。
また、歌詞カードを印刷・封入する事が時間的に不可能になり、歌詞カードは、ワールドツアーの写真などを納めた写真集『OMIYAGE』(=YMOエイジに愛を込めて)に入れる事とした。
そして、3人が企んだ、大衆・アルファレコードへの豪快なる裏切りは、その名も『BGM』(=バック・グラウンド・ミュージック)として結実する。
《つづく…かもしれない》
YMO - Tighten up, Riot in Lagos Live from Los Angeles 1980
頭にあるまま自動筆記をつらづらと……。
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1980年YMOの確固たる音楽を(結果的には)世界に広めた第2期ワールドツアーは、皮肉にもアルファレコードの強要であった。
そのプラン段階で強要に対してYMO脱退を叩き付けた坂本龍一。
最終的にアルファレコードとの戦いの結果の交換条件が「ソロ・アルバムを何の制限も無く1枚やりたいように作る」ことで決着し、その産物が「B-2UNIT」となった。
少年だった自分は、そんな裏の闘争を知らぬなか、夕方の衛星中継でのテレビ・ライブ生放送に興奮しながら、テレビとラジカセをジャックで結び、生放送の録音の用意を着々とした。
まだ日の明るさが残る下町のテレビの前にひざまつき、刻を待つ。
時差のある現地時間は夜・その刻々とライブが迫るざわめきに同期化していた。
自分にとり、東京が世界の発信基地となったその瞬間の瞬きそのものだった。
素晴らしくシンプルでカッコイイ、ステージセット。
真ん中奥に鎮座した憧れの大きなコンピューターの『たんす』とそれを神妙に全体コントロールする名参謀=松武秀樹。
それを中心に均等に配置された、幸宏オリジナルデザインのYMOシャツに黒のパンツ姿で統一された6人のしゅっとした姿。
そして、腕に巻いた真っ赤なスカーフ。
後列、左から大村憲司・松武秀樹・矢野顕子
前列、左から坂本龍一・幸宏・細野さん
全てがカンペキだった。
***
……松武秀樹のチューニングするパルス音が、次第に次第に高音に高まりながら、聴衆者を静寂と緊張に導いていく。
次に背後でうごめく疾走音・泡立つ音。
そして、リピートしながら崩れ落ちるワーンワーンワーン…という音。
そして、このツアーの最初の曲に細野さんが決めた『ライオット・イン・ラゴス』が始まった…。
あえてノイジーなこの曲を選定したプロデューサー細野さん、YMOという役割を演じねば為らなかった3人の、ささやかな謀反の一端…。
***
元来、温度等環境に影響されやすい巨大コンピューター=『たんす』をステージに持ち込む発想自体無理があった中、YMOは初めてそれを決行する。
『ライオット・イン・ラゴス』の途中から、このコンピューターが暴走し・停止する様が、音の旋律からわかった。
大舞台での中枢基幹の停止を察知して、必死に、ライブ慣れした矢野・細野・坂本のキーボードがその場のインプロビゼーションでカバーに回る。
そんな緊迫感の中の事故。
そんな事件すらも、この歴史的ライブの一側面を成しており、今では懐かしく思う。
***
ライブの途中で、現地で芳村真理が騒がしく大きくズレた「大衆的」粗い口調でYMOそれぞれにインタビューする。
細野さんは、芳村真理のくだらない質問に一瞥冷笑し、適当にあしらった。
そのライブのカセットテープは30年後の今も残る。
***
1980年とは、諸手を挙げて拍手喝采の「YMOイヤー」で、日本国じゅう何処に行ってもYMOが流れていた。
3人はまともに外を歩く事すら出来なくなり、坂本龍一には自分の名を呼ぶ幻聴が鳴り出す。
元々ワールドツアーに前向きではなかった3人が、逃げ場無く陥った『YMO』という呪縛。
数ヶ月に及ぶ、1980年後半~年末の武道館凱旋公演まで。
日々同じ演奏での世界行脚に次第に疲弊しノイローゼに傾いていく3人。
アルファレコードと大衆からのプレッシャー(公的抑圧)が、3人の内的抑圧の水位を上げていく。
1980年の末には大衆側の「みんなのYMO」と「3人が進もうと思う道」に大きな乖離が既に亀裂として生じていた。
繰り返す日々の中で、早く次のアルバム・異なる地点に向かいたいという心境に3人の意志は収斂していく。
***
『モンスター=YMO』という化けものとなってしまった状況・アルファレコードへの復讐・ちゃぶ台をひっくり返す転覆行動に出る事を、プロデューサー細野さんの思惑を核にしながら1981年がスタートする。
大衆もアルファレコードも「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー2」を期待していた。
そこに、「Bー2UNIT」的要素を細野さんが導入する。
(まるで今、自分らの仕事チームがやっている様を思い出してしまった。
あるタイムリミットに走りながら、各パーツを分解作業しつつ、相互連携し、途中で合体し、最終リミットに仕上げる。)
1981年3月21日が新譜発売日と設定される。
そこから逆算していく。
時間が無いので、AB面1~4曲を約4分30秒、各面最後の曲だけを約5分20秒と設定し、各自に細野さんが「こんな曲」と割り当て、制限時間が来たら一気に仕上げてカットする、という荒削りな手法。
3人が揃わなくとも各パーツを分解し、ドラムまでを分解し、ひたすらキコカコ鳴るパーツに合わせて、スタジオへの入場者がその場で作り、去っては入りを繰り返す。
各自が詩を日本語で書き、スタジオ内で作っている途中トラックのテープと共に、ピーター・バラカンに差し出し、スタジオの外でピーターがそのテープを聴きながら、詩が曲に乗るような英訳をする。
凄まじい殺人的作業スケジュールの中の進行状況。
ノイローゼ状態がひどくスタジオにも来なくなってしまった坂本龍一を抱えながらも、ひたすら3月21日に向かって、時を刻んでいく。
最終期限を向かえ、プロデューサー細野さんが坂本に要求していた曲は出来ず、「千のナイフ」をノイジーにセルフカバーする形ではめ込む形とした。
また、歌詞カードを印刷・封入する事が時間的に不可能になり、歌詞カードは、ワールドツアーの写真などを納めた写真集『OMIYAGE』(=YMOエイジに愛を込めて)に入れる事とした。
そして、3人が企んだ、大衆・アルファレコードへの豪快なる裏切りは、その名も『BGM』(=バック・グラウンド・ミュージック)として結実する。
《つづく…かもしれない》
YMO - Tighten up, Riot in Lagos Live from Los Angeles 1980