1987年初めでいったん自分が追いかけてきたニューウェイヴ/テクノの「明日は、もっと新しい明日」という流れに幕を閉じた。
1986年の自殺未遂や精神破綻を経て、音楽を日々追いかけなくなり、病気修復の傍ら絵を描くことにほとんど時間を割いていた。
「もう新しい音楽なんか生まれない」
そう思っていた。
世間ではユーロビートなるものも流行っていたが、それはしょせんは踊るための音楽で、自分の琴線を揺らすことはなかった。
1989年に入り「ワールド・ミュージック」なる言葉が流行った。
それに乗じて深みも無い音楽を排出したヤカラも多く居た。
どこ時代にも、そういうヤカラは居るもの。
個人的には「そんなものは70年代終わりから80年代にかけて、ニューウェイヴ/テクノがロックでは無い音楽を取り込み、その衝突が生み出したものに比べれば屁みたいなもの」と思っていた。
要は「ワールド・ミュージック」とは沈滞ムードが蔓延する音楽業界が、米英中心の音楽紹介では駄目だと世界の音楽を輸入し、活性化策を図ろうとしていた事を指していた。
「ワールド・ミュージック」とは、いわば音楽のゴッタ煮のことを指しているのだろうが。
自分らはアフリカ音楽、南米、アジア、ヨーロッパのイギリス以外に潜んだ音楽・・etcを聴いてきたので「何がワールド・ミュージック?」という「?」だらけの状況だったが、そんなさなか、1989年、様々な音楽を融合させ、日本から細野さんは「オムニ・サイト・シーイング」、既にニューヨークに住んでいた教授は「ビューティー」を発表した。
共に名盤だと思うが、教授の「ビューティー」の「ROSE」なるノンビート、ノンリズムの曲を聴いてかなり驚きを感じたのは確かであった。
今までの坂本龍一の曲には無かった新しい世界があった。
教授の持ち味であるアジア・オリエンタリズムを遺しながらも、どこの国の音楽だかわからない響きに驚いた記憶がある。
YMOをバイトと思って参加して巻き込まれた坂本龍一が、仮想的であったYMOさえなくなり、ソロで本気で音楽と格闘せざるを得なくなり「未来派野郎」で初めてのソロ・ライヴを演じ、「ネオ・ジオ」を経て、この「ビューティー」へ。
「ネオ・ジオ」「ビューティー」では出生である沖縄民謡を取り込みながらも、多様な音楽のエッセンスを含み、アルバムとしている。
「ビューティー」について、海外の馬鹿な音楽評論家が「これは、音楽に於ける帝国主義で危険だ」と言っていたが、そんなものは既に70年代末から始まっていて、今更何を言っているのだろうと思った記憶がある。