今日は朝からチェロやヴァイオリンそして二胡、ヴィーナヴィーナと、とても近所迷惑な仕事場になりました。
その上立ても上手なサックスと、隣のシュタイナー学園の子供たちの和太鼓と篠笛。
どんな所なところなんだここは、と思います。
多摩川の河川敷の一部ですから誰も文句の言いようの無い、騒音無法地帯なのです。
仕事場に見習いに来ている、Sさんは、市民オーケストラでチェロを弾いている人です、ここなら思い切り練習できるとばかり最近、私の朝練習に参加しています。
彼の持っているチェロはドイツ製です。ドイツといってももうオーストリアに近い地方です。
そのチェロの鳴りが今ひとつ、「どうしたら良いかね」。と、Sさん。
「この駒、磨いてしまった?」
「うん、仕上がりが今ひとつ何で磨いてしまった」
「なんてことするんですか、駒磨き込んだらならなくなるのです」
「ええええええ!」
見た目も大切ですが、駒は磨かないのです。
磨かないと言っても180番の紙やすり位はかけるのですが、400番以上の磨きをかけると、とたんに駒はならなくなります。
皆さんも駒試してみて下さい。
思い切り120番くらいの紙やすりで駒の表面を軽く撫でる位に擦って下さい。とたんに鳴りますよ。
そして音がクリアーになります。
楽器には磨いてはいけない所もあるのです。
特に駒と楽器の内部はむしろ汚いと思う位に荒らすのが当たり前なのです。
二胡の場合は胴の内部まで見えますから、ついつい内部まで磨きたくなるのが日本人なのかもしれません。
裏まで磨いて見えない所にも手抜きをしないという風にまでなると、もうこれは私に言わせれば病気としか言いようが無いです。
昔からそれをよしとする工芸の世界がありましたからしょうがないのかもしれませんが、それは伝統でも何でもないです。
むしろ日本の工芸の優秀さが世界中に認められるようになってきた明治期以後の風潮です。
要するに本当の意味での仕上がりを尊ぶことより如何に手をかけて在るかを強調したかっただけなのです。
これは今のヴァイオリンの製作者たちにも言えます。見た目は美しいのですが、ならないのが日本人の楽器製作者の楽器と言われてしまうこともあります。
どうもこれは私だけの考えではなかったようで、劉継紅さんも私の作った二胡を見てもっと中を荒らして、もっと、と言っていました。
そこまでかどうかはわかりませんが、仕上がりへの行き過ぎた礼賛というのがあるのも間違いないようです。
坂井克則さんのHPから。
35 精度から調和へ
日本人は元来、器用なせいか、20~30本もヴァイオリンを作ると、かなり綺麗で精度の高いものができる製作者になれる。
そして、この時期が一番、表面的な精度に拘る様になる時期であり、とても大切な時期でもある。
それは、単なる精度を求めて作り続けるか、真のヴァイオリンの美しさを求めて作るように成るかの別れ道に立つ時期である。日本人は、元来の器用さが災いしてか、ほとんど精度の道しか進めない。物が存在する時の自然との調和の大切さを見失ってしまう。アルティジャーノ(職人)はアーチストである必要はないが、物を作ると言う事の中には、調和を知ることの感性が必要である。
その上立ても上手なサックスと、隣のシュタイナー学園の子供たちの和太鼓と篠笛。
どんな所なところなんだここは、と思います。
多摩川の河川敷の一部ですから誰も文句の言いようの無い、騒音無法地帯なのです。
仕事場に見習いに来ている、Sさんは、市民オーケストラでチェロを弾いている人です、ここなら思い切り練習できるとばかり最近、私の朝練習に参加しています。
彼の持っているチェロはドイツ製です。ドイツといってももうオーストリアに近い地方です。
そのチェロの鳴りが今ひとつ、「どうしたら良いかね」。と、Sさん。
「この駒、磨いてしまった?」
「うん、仕上がりが今ひとつ何で磨いてしまった」
「なんてことするんですか、駒磨き込んだらならなくなるのです」
「ええええええ!」
見た目も大切ですが、駒は磨かないのです。
磨かないと言っても180番の紙やすり位はかけるのですが、400番以上の磨きをかけると、とたんに駒はならなくなります。
皆さんも駒試してみて下さい。
思い切り120番くらいの紙やすりで駒の表面を軽く撫でる位に擦って下さい。とたんに鳴りますよ。
そして音がクリアーになります。
楽器には磨いてはいけない所もあるのです。
特に駒と楽器の内部はむしろ汚いと思う位に荒らすのが当たり前なのです。
二胡の場合は胴の内部まで見えますから、ついつい内部まで磨きたくなるのが日本人なのかもしれません。
裏まで磨いて見えない所にも手抜きをしないという風にまでなると、もうこれは私に言わせれば病気としか言いようが無いです。
昔からそれをよしとする工芸の世界がありましたからしょうがないのかもしれませんが、それは伝統でも何でもないです。
むしろ日本の工芸の優秀さが世界中に認められるようになってきた明治期以後の風潮です。
要するに本当の意味での仕上がりを尊ぶことより如何に手をかけて在るかを強調したかっただけなのです。
これは今のヴァイオリンの製作者たちにも言えます。見た目は美しいのですが、ならないのが日本人の楽器製作者の楽器と言われてしまうこともあります。
どうもこれは私だけの考えではなかったようで、劉継紅さんも私の作った二胡を見てもっと中を荒らして、もっと、と言っていました。
そこまでかどうかはわかりませんが、仕上がりへの行き過ぎた礼賛というのがあるのも間違いないようです。
坂井克則さんのHPから。
35 精度から調和へ
日本人は元来、器用なせいか、20~30本もヴァイオリンを作ると、かなり綺麗で精度の高いものができる製作者になれる。
そして、この時期が一番、表面的な精度に拘る様になる時期であり、とても大切な時期でもある。
それは、単なる精度を求めて作り続けるか、真のヴァイオリンの美しさを求めて作るように成るかの別れ道に立つ時期である。日本人は、元来の器用さが災いしてか、ほとんど精度の道しか進めない。物が存在する時の自然との調和の大切さを見失ってしまう。アルティジャーノ(職人)はアーチストである必要はないが、物を作ると言う事の中には、調和を知ることの感性が必要である。