二胡工房 光舜堂

二胡を愛する全ての人へ

閑話休題、夕陽のような。

2012-09-16 09:14:48 | ■工房便り 総合 
変な例えかもしれませんが、夕陽のような楽器作りをしたいと思っています。

夕日は不思議なことにどんな人をも感動させます。

感動のし方は人それぞれです。

あの色が光がどんな色合いであろうと、様々に人を感動させます。

その色合いや光が人々の記憶の中の何かを引き出すからかも知れません。

或いは何かのホルモンを刺激するからかも知れません。

或いは単に綺麗と。



どうも、ほぉさんに言わせると、私は、とんでもなく人付き合いが下手らしいのです。

その下手なのが判らないぐらいに、下手なようです。

考えてみれば、若いころから、木や、鉄、漆や、碁盤、或いは海の中の魚などきり付きあってこなかったということがあるかもしれません。

木も鉄も、まともに向き合って、話しこめば、或いは、その動きを見てその変化を聴いている限り、すべて真実でしかありえません。

ですからついつい人を相手にした時にも、木や鉄と相対している時のように考えてしまいます。

真実というのが変な言い方だとすると、嘘の無い物ということかもしれません。

人は時として本音と建て前とが入り組み、これを十分に理解する人というのは絶対と言っていい位に居ないのではと私は思うのですが。

にもかかわらず、私以外の全ての人達は、どうもそのわからない人という物と大変うまくやっているようです、多分!

凄いですね。

勿論、私が木も鉄も全てのことを解るわけではありません。

かなり良く解るのは、胡桃の木の事、紫檀黒檀の事。

そして、鉄の錆び。


事実のみの積み重なりが、自然のものということであっても、それらを突き詰めていけば全てわかるということではないのが面白いのです。

紫檀も良く解ります。

しかしその紫檀と蛇皮が組み合わさった時に出来上がる二胡という楽器が、予想を越えた働きをします。

考えても見て下さい。唯の木の板が組み合わさった途端に音を奏でるのです。

位相が変わるのです。

これは、あり得ないということです。
(これはかなり大雑把な意見ですから悪しからず、ネット上では人は何を言い出すか分かりませんから、ここに言い訳はしておきます)

神様は、世界を、そして宇宙を作ったと言いますが、人は楽器を作り出しているのです。
(これも例えてみればという事です)

これは自然界にはありません。

もちろん、もちろん、他にも人が作り出した自然界を越えるものというのはあります。

しかし、これらはあくまでも研究の上で、自然の摂理の一部を(あくまでも一部)取り出して組み合わせた結果出来上がったもの達です。

車にしろ、今皆さんが見ておられるPCにしろ携帯にしろ、人の知識の集大成なのです。

それはもちろんすべて分かっているわけではありません。

何故電気というものがあり何故電気がこのような働きをするかは分からないながらも、こうなる、こうなるであろうという知識を集大成して出来上がったものです。
(このことはもしかしたら、他の考えもあると思います。と、こういうことを書かなければいけないのはネット上の発言のバカバカしさですし、私が人との付き合いが下手ということの証かもしれません。)

しかしその知識以上の働きはしません。

コンピュ―ターが、そのインストールした以上の知識を持つというのは考えられません、そんなことになったら怖いです。(可能性はあると思います、現在は、電気のオンオフ二つの信号から計算しますが、もしこれを交流電気のプラスとマイナスそしてオフという3つの基本で作り上げ々たとしたら、相当ファジーな計算が出来るのではないでしょうかという私の意見ですから悪しからず)

楽器は違います。

音を発するところまでは知識としての集大成です。

しかし、それらが人の感情にまで働き掛けるというのは、位相が変わると言っても良いかと思います。
(ここでまた、違うご意見もあるかもしれませんが、これは単に私の意見ですので、)

物質が人の精神に働きかけるのですから。
(真言密教では肉体或いは物質をを表わす胎蔵界と精神を表わす金剛界は二つでありながら一つのものであると、南無遍照金剛様は解き明かしてくれていますが、まだそこまでは悟りに至らぬ私としては、別位相と今は考えさせて下さい)

もちろんF1など、ただ車が走っているだけでもその音と響きなどに感動する人はいますが、それは一部の人ではないでしょうか
(車が走ると言っても、誰々の乗った車が、と、あくまでも人と、そのチームへの感動そしてサーキットへ来る楽しさ、それに伴う賑わいなどのお祭り的な気分もかなりあると思います。)

楽器作りは私の人生の集大成ですから、ついついとても特別な事として、自分自身に納得させたいからこう書くのかもしれません。

にしても、良い楽器の音、音楽にならないまでも、単に音階を奏でるだけでも人はそのよい音色に感動します。
(ここでまた、それは弾き手が良いからとか、というご意見もあると思います。こういうおもんばかりが私は下手なのです)

夕日は単に太陽が地平線に隠れていく時の光の変化でしかありません。

つい5分前までは、暑いなと思わせるだけの強烈な太陽でしか無かったものです。
(もちろん、冬の、薄い光を投げかける場合も有ります)

でも地平線に沈む、その3分間ぐらい前から、単に光り輝く直視も出来ない太陽とは姿が変わり、夕日、というものに変わっていきます。
(という考えも有ります)

単に地平線上に近づくに従って、埃や湿気によって、直視し得るくらいの輝度になったからかも知れませんが、

それでも夕日は人を何らかの形で感動させます。

何故でしょう。

もしでき得れば、紫檀と蛇皮
(もちろん黒檀や老紅木も有りますよ)で出来た箱である二胡や、楓とスプルスの板の箱でしかないバイオリンが人々の感動を呼ぶくらいにまでの音にしてみたいというのが、私の人生の最終的な生き方なのだろうなと、ツクヅク最近感じます。

付き合いべたはこれはもうどうしようも有りません
(開き直りです)
その分あまりにも人間的な、ほぉさんが、皆さんとお付き合いをしてくれるか、或いは、人とはこういうものですよと私に解説してくれるでしょう。

もしほぉさんがいなくなれば、私はただひたすら、楽器を作って、私がいなくなったら皆で分けてもらいましょう。
(人というものが良く解るタロ若がなんとかするでしょう)

という事で人として生きるよりも楽器作りとしてだけ生きていくのかなと感じています。

言うことも本音ですし、

やることも本音です。
(これは付き合いづらいですね)

良い演奏をしてくれる人に、或いは私の作った楽器を喜んでくれる方に、私のできる最大限の事を、真艫に
(良い言葉ですね、順風を真後ろから受けている感じがします)
楽器作りと、最大限できる限りの人付き合い
(私なりにはです。大したことはとは出来ませんので悪しからず、ただひたすら楽器作り以外は解らない中途半端な爺とお許しくださいませ)

後はほぉさんが、なんとかしてくれることを、願うばかりですので、

光舜堂においで下さる皆さん、人付き合い下手な楽器作りの爺と思し召して、どうぞ宜しくご寛容なお付き合いくださいませ。












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2 Comments

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久々のカキコミです (Kピー)
2012-09-16 17:20:14
西野さんの付き合い下手は私個人は、感じたことがありません。光舜堂の空間と西野さんのは話は私にとって心地良い、癒やしのよいな存在です。本当です。
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癒し? (nishino)
2012-09-17 11:19:11
生れてはじめて言われました、ありがとうございます。

会うと元気が出るとはよく言われます。

でもほぉさん曰く、台風だそうです。

目の中に居れば風も雨も来ないけど、、、、
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