原発事故以来、放射線への不安が広がっているが、不安の最大の核心は、特に低線量被爆の危険度がよくわからないことにある。
この「わからない」という宙吊り状態に耐えることが難しくなっているのは、現代は科学の時代であり、たいていのことは「わかる」はずだという意識が強いからであろう。
しかし、科学の時代にあっても実際にはわからないことだらけである。放射線障害に関しても、一度に大量に浴びた場合の急性症状はわかっているが、低線量となるともうわからない。
おそらく今回の事故のような先例がほとんどないため、低線量被爆の影響問題は解明されておらず、まさに今回の事故が重要な先例となり、これから「わかる」ことが多いのだろう。逆に言えば、まだわからないことが多いのだ。
ところが、専門家たちも「わからない」と正直に言うことを恥とするためか、わかったふりをすることが多い。あるいは自身の研究の結果、「わかった」と思っていてもそれは一つの学説にすぎず、なお学界では反対説もあり、固まっていないことも多い。
専門家たちもわからないことはわからないと言明する勇気を持ってほしい。「まだわかっていない」というのは、立派な科学的回答なのだから。わかっていないことをわかっているように言うのはかえって危険である。
その最たる例が日本で盛んな各種健診(検診)であろう。日本では半ば強制されることもある健診にはその延命効果が客観的なくじ引き試験で検証されていないものが少なくないのに、日本では効果が当然にあるかのような宣伝が「早期発見・早期治療」を合言葉に行政・学界・メディアを挙げて官民一体でなされている。
その結果として、健診メニューの定番となっているX線・CT検査による医療被曝量でも日本は世界に冠たる「大国」となっているのだ。とはいえ、その医療被曝の危険度となるとよくわからないことが多いようだ。それだけに健診の功罪の検証は厳密になされるべきだろう。
問題の原発事故も、地震や津波の最大可能規模についてわからないことをわからないと認めなかったことが、甘い災害想定と対策の欠陥をもたらし、大事故につながったことはほぼ明らかである。
ちなみに、地震に関しては「予知」が強調され、政府の助成も受けているが、予知できたためしがない。これは地震の発生が事前に「わかる」という前提になっているわけだが、強い疑念が当の地震学者からも出されている。「予知」は科学者より占い師の仕事ではないか。
一般大衆の側も「わからないことはわからない」という状態に耐える必要があろう。一般大衆が専門家に確実な「答え」を求めれば、かれらも威信保持の心情が働いて答えざるを得なくなってしまうからである。
一方で、専門家の側が自分たちの専門知としてすでに「わかっている」ことを補強するために、大衆を利用しようとすることもある。裁判員制度などはその例だ。
先般「現行絞首刑は憲法が禁じる「残虐な刑罰」に当たるかどうか」が争われた裁判員裁判で、本来裁判員の権限でない憲法解釈問題を裁判員に討議させたうえで、結局「合憲」とした地裁判決が大阪であった。
これなどはすでに判例として固まっている合憲説―ただし、一部専門家の間に批判はある―を改めて維持するために、職業裁判官があえて素人の裁判員の見解を聴くというアリバイ作りをしたのである。憲法判断は専門家の仕事である。それなのに、自分たちの保守的な仕事を批判されるのを警戒して「一般人の見解」で正当化を図ったのだ。
こういう場合、素人は素人の最大特権として、「わからない」という回答をしてほしかったと思う。いろいろな意味で、「わからない」に耐える必要があるのだ。