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死刑廃止への招待(あとがき)

2011-11-19 | 〆死刑廃止への招待

 前回までで本論は完結していますが、まだ積み残されている大きな宿題として、国家主権という大問題があります。
 国際社会から死刑廃止の勧告を受けたとき、多くの死刑存置国が持ち出す抗弁は、「死刑は国家主権に属する」というものです。要するに、国際社会は国内問題に対して干渉するな、というわけです。
 日本政府のお得意は、第13話で見たように「国内世論」ですが、これも実質的には「死刑の存廃は国家が把握する国民世論の動向で決まる」という含みから、やはり死刑を国家主権の問題として主張しようとする議論の亜種なのです。

 死刑廃止論者が言うのも妙ですが、こうした死刑=主権説には一理あります。というのも、合法的に人を殺す権利は国家主権の名においてしか認められ得ない特権であり、伝統的にも合法的に人を殺す権利こそ、まさに主人の権利たる主‐権の最重要の内容であったからです。この理は、国家の主人が国王から国民に変更されても基本的に変わっていません。
 こうした国家主権の内容を成す合法的な殺人権の対内的な作用が死刑であるとすれば、それと対になる対外的な作用が戦争です。
 こういう視点で世界を見渡してみると、今日「死刑廃止の伝道師」といった観のある欧州(EU)は、死刑を放棄したけれども戦争は放棄していません。一方、米国のように死刑も戦争も共に放棄していない諸国も残されています。
 日本はと言えば、憲法上戦争は放棄していますが、死刑を放棄していないことは周知のとおりです。もし日本が死刑も放棄してしまったら、国家主権を丸ごと捨てるに等しいことではないか━。大衆レベルとは別に、日本が国家として死刑存置に執着する本当の理由は、そんなところにあるのかもしれません。
 もっとも、日本の場合、憲法上交戦権の放棄及び潜在的な戦力を含むあらゆる戦力の不保持という徹底した形で戦争放棄が宣言されていながら、実際上は自衛隊という形で事実上の戦力を保有していますし、将来の改憲によってはっきりと再軍備が認められる可能性もありますから、日本の「戦争放棄」とはあくまでもカッコ付きのものではありますが。
 実際のところ、戦争も死刑も放棄した国はまだ一部の小国にとどまっているのが実情です(北欧アイスランドや中米コスタリカなど)。

 死刑廃止を揺り戻しなく本源的に定着させるためには、国家主権という政治的‐法的観念にメスを入れる必要があるでしょう。逆に、国家主権をことさらに高調する思想にあっては、たいてい死刑制度も強く肯定される傾向が認められます。
 この議論は単なる死刑の存廃を超えて、国家の存廃という大問題に発展するので、ささやかな本連載ではもはや論じ切れません。この点、読者の皆様においてもお考えいただくことを願って、連載を終えます。(了)

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