ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第30回)

2012-11-02 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(3)ロシア革命とマルクス(続き)

ドイツ11月革命の挫折
 ここでロシア10月革命と対比しておきたいのが、ロシア革命に引き続く波及現象として翌1918年11月、マルクスの祖国ドイツでも帝政を崩壊させたドイツ11月革命である。帝政が崩壊するまでの経緯はロシア革命(2月革命)と類似するが、その後の展開はロシアの場合とは好対照なものとなった。
 ドイツでは、前述のように一応マルクス主義的綱領を持つドイツ社民党が議会政治の枠内で順調な発展を続け、1912年の総選挙では100を超える議席を獲得して比較第一党の座に就くまでになった。そういう状況の下でのドイツ革命によって成立した臨時政府は社民党政権そのものであった。しかし、この頃の社民党内ではすでにベルンシュタイン流の離脱主義が党内の大勢を制していたため、この臨時政府の施策にはもはやマルクス的なものは何もなかった。
 こうした党の保守化に不服のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトら党内左派は分裂してドイツ共産党を結成し、革命の一層の進展を求めて街頭闘争に入った。この党の指針はローザの理論に沿っていたが、彼女はレーニンの革命前衛理論に対しては批判的で、党が革命行動を先導するのではなく、労働者大衆のゼネストを通じた自然発生的な革命行動を期待するという消極的な立場をとっていた。
 その点では、マルクスの革命後衛理論に近いとも言えたが、ローザ理論はマルクスが共産主義者に求めた「断固たる推進力」や「洞察力」を軽視し、大衆の自発性への楽観的すぎる信奉に彩られていた限りでは、マルクス理論に対するある種神秘主義的な逸脱を示していた。そのうえ、ローザの場合も社会革命の経済的諸条件に関する認識は十分と言えなかった。
 共産党が肝心の労働者大衆に間にほとんど浸透しない中、社民党右派フリードリヒ・エーベルト率いる臨時政府は共産党に対する武力弾圧に乗り出し、「義勇軍」のような反動的民兵組織をも動員してルクセンブルクやリープクネヒトらを超法規的に処刑する―事実上の虐殺―に至る。
 こうしてドイツ11月革命はマルクス主義政党であるはずの社民党によってプロレタリア革命への進展が暴力的に阻止された末、結局ブルジョワ革命の線で収束した。その結果として、当時としては世界で最も先進的なブルジョワ憲法(ワイマール憲法)を持つ民主共和制(ワイマール体制)が樹立され、初代大統領にエーベルトが就いた。
 けれども、自らの血塗られた手でプロレタリア革命を阻止した社民党はワイマール体制の下、いよいよ離脱主義の度を深め、実質上はプチ・ブルジョワ政党に変質していった。
 こうしてマルクス主義政党社民党の保守化・反共路線によって始まったワイマール体制は、マルクスには思いもよらないナチズムの種子を播き、やがてドイツ国民はその苦い果実を味わうことになるのである。

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