ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第32回)

2012-11-09 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス(続き)

国家社会主義
 レーニンは経済政策の面では「統制経済から社会主義へ」という構想を抱いており、第一次世界大戦中の総力戦とそれに引き続く内戦の間の統制経済を社会主義体制へ転化させることができると信じたのである。彼はこの信念に基づき、内戦の間、いわゆる「戦時共産主義」と称する統制経済政策を施行し、特に工業生産の国家的集中(国有化)を推進していった。
 しかし、この「戦時共産主義」はその中の最も問題含みのプログラムであった食糧の強制的な割当徴発制が農民層の強い反発を呼び、農民反乱を引き起こしたことから、レーニン政権は内戦終結後、事実上資本主義を復活させる新経済政策(NEP:ネップ)に転換する。
 ただ、これは農民慰撫と経済復興を兼ねた技術的・一時的な政策転換にすぎず、レーニンの真意が生産手段の全般的な国有化にあったことは間違いない。このような国有化政策は、マルクス(及びエンゲルス)も『共産党宣言』の中で提言していたところであるから、この点に関してレーニンはマルクスに忠実であるように見える。
 しかし、レーニンにあっては統制経済と計画経済とが十分に識別されていない。マルクスが想定していたのは、パリ・コミューンの敗因分析に関連づけて言われていたように、「協同組合連合会が共同計画に従って全国的生産を調整し、そのうえでそれをかれら自身の管理下に置」くような計画経済システムであった。つまり、ここでは生産企業である協同組合が連合して自主的に「共同計画」を策定・実施するような体制が予定されているのである。
 ところが、レーニン存命中の1921年に創設され、後継者スターリンの下で本格始動した国家計画委員会(ゴスプラン)は行政機関であり、ここでの「計画」とは官僚の手による国家主導のプランにほかならず、その本質は統制経済である(行政指令経済)。ただ、民間経済を国家が政策的に統制するにとどまらず、一応生産手段の国有化が実現した限りではこれを「社会主義」と呼んでも誤りではなかろうが、それは国家中心の社会主義=国家社会主義である。
 もっとも、マルクスも資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期の段階―国家論としてはプロレタリアート独裁に相当する―としては、資本を国家にいったんは集中する国家社会主義体制を想定していたと解し得るかもしれない。
 この点、先の77年ソ連憲法前文は当時のソ連社会の発展段階を「発達した社会主義社会」と規定しつつ、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」とも規定していた。しかし、マルクスに「発達した社会主義」と「共産主義」の段階的区別は存在しない。よって、憲法前文の言う「法則」とは、少なくともマルクス自身の立てた法則ではない。
 結局、ソ連では、マルクスにおいてはせいぜい過渡期の段階にすぎない国家社会主義が遷延し、定在化してしまったのだと考えざるを得ない。「共産主義への道」はすでに空文句と化して久しかったのである。
 ちなみにマルクスより2年先に没したロシアの文豪ドストエフスキーは、問題作『地下室の手記』の中で一人称の主人公にこんなことを言わせている。「人間は何かを達成するプロセスは好きなくせに、目的を達成してしまうことはあまり好まないときている」。ソ連体制はマルクスよりも地下室の主人公の「法則」のほうにかなっていたのではなかろうか。

“モスクワ教皇”スターリン
 レーニンが病気のため10月革命のわずか7年後に世を去ると、後を継いだのは晩年のレーニンから「粗暴」と懸念されたグルジア人のスターリン(本名ジュガシビリ)であった。
 スターリンはレーニン存命中から党書記長として台頭していたが、当時の書記長職はせいぜい事務局長といったところで、スターリンは党の実務責任者として「豪腕」を発揮し始めていた。レーニンはスターリンの解任を検討していた形跡があるが、実現しないまま没した。
 スターリンは十分な知的素養を欠く党専従活動家であり、後のソ連社会で支配層を成す党内官僚の第一世代であった。当然マルクス理論に対する彼の理解度はレーニンにも遠く及ばなかった。彼の得意分野は理論闘争よりも権力闘争にあった。その正反対のキャラクターであったライバルのトロツキー(本名ブロンシュテイン)を退けたスターリンはあっという間に党内権力を確立、以後第二次世界大戦をまたいで1953年に死去するまで、マルクスとは似ても似つかない個人崇拝的な独裁体制を保持したのである。
 レーニンと異なり、理論面では何ら独創性も深味もなかったスターリンは、マルクスとレーニンの異質な理論を教条的につなぎ合わせて「マルクス=レーニン主義」なる体制教義を作り上げ、これをマルクス主義の正統/異端を分ける教理問答集に形骸化させた。そのうえで党組織の官僚化を完成させ、ソ連共産党をマルクス主義の教皇庁に仕上げたのである。こうしてスターリンはいよいよ擬似宗教の度を高めたマルクス主義の言わば初代“モスクワ教皇”の座に就いたのだ。
 レーニンとスターリンの関係をめぐっては、「レーニンの正しい理論と路線を粗暴な独裁者スターリンが歪めてしまったためにソ連体制は失敗に終わった」とする理解が根強く残る。こうした理解がどこまで妥当であるのかについては、第2部で改めて検証するとして、マルクスとの関係で言えば、マルクス=レーニン主義なる体制教義はマルクスその人とは全く無関係であると断じてよい。
 実際、本当にマルクスが「復活」してマルクス=レーニン主義に接すれば、それは自らとは何ら関係ないとして、あの「ゴータ綱領批判」のような手厳しい批判論文を書き、自身の名を削除するよう求めたに違いないようなシロモノなのである。
 もっとも、マルクス=レーニン主義とマルクスとの乖離は、すでに概観してきたように、レーニンによるマルクス理論からの離反によって生じていたことの延長ではあるが、それにしてもスターリン治下でのマルクス主義の教理問答化は、後に明るみに出る大量粛清などの組織的人権侵害に象徴される「スターリン主義」までマルクスの責任に帰するような「冤罪」にマルクスを巻き込むことになったのは確かである。
 そういう点で、レーニンの後継者にスターリンという特異な人物が座ったことは、そもそもロシア10月革命がマルクスからの離反者レーニンの指導でマルクスの名において実行されたことに続き、マルクスにとって二重の不幸であった。それではスターリンの代わりにトロツキーが就任していればより良かったのかと言えば決してそうではない。しかし、この問題もそれを論ずるにふさわしい第2部に譲ることにしたい。

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