ザ・コミュニスト

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資本主義一巡

2013-06-04 | 時評

「成長の中心になるアフリカに投資すべきは今だ」という安倍首相の言葉に象徴されるように、アフリカが資本主義最後の秘境として垂涎の的となっている。

アフリカ大陸は域内人口10億を超える潜在的大市場であるから、資本主義にとって最後のフロンティアとして照準に入ってくるのは自然な流れである。資本主義は世界を一巡して人類発祥の地へ戻るわけだ。

アフリカ再分割競争の始まりである。しかし19世紀のようにアフリカは無力でない。独立運動が一巡し、大陸を束ねるアフリカ連合(AU)も発足している。今や、アフリカの支配層自身が積極的に資本主義を導入しようとしている。

そこでは豊富な天然資源を土台とする資源資本主義による発展モデルが目指されているようである。21世紀のアフリカ再分割競争で19世紀には分割される側にあった中国が一歩先行することの意味はそこにある。アフリカでは旧社会主義の強権支配国家がいまだに少なくない中、中国式の政治的に統制された資本主義という「社会主義市場経済」が魅力的に映るのであろう。

しかし、資本主義の本質はカネを稼ぐ才覚のある者が、才覚のない者を置き去りにしてどんどん先に進むという「置いてけ堀」経済である。従前からの構造的貧困を伴ったアフリカ的資本主義は貧富差の著しい、ある意味では最も資本主義らしい資本主義―ハイパー資本主義―となる可能性が高い。

それに対する民衆の反抗は、資本主義的市場原理にとって桎梏となるアフリカ的多様性と共同性とを武器として、世界の他の地域以上に強いものとなるだろう。

いずれにせよ、資本主義は一巡して地球を覆い尽くし、いよいよ爛熟期に入る。それはまた同時に、資本主義の終わりの始まりを画するであろう。

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戦後日本史(連載第7回)

2013-06-04 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔二〕「逆コース」施策の開始

 いわゆる「逆コース」施策が本格的に始まるのは、1951年のサンフランシスコ講和条約(以下、サ条約)で日本が法的に主権を回復し、占領が終了する翌52年のことである。従って、「逆走」の発端となった朝鮮戦争が勃発した1950年から52年までの占領末期は、「逆走」の序走期とみなすことができる。
 「逆コース」施策の中で中心を成すのは、やはり軍事政策であった。「逆走」の言わば号砲として50年にGHQの指令に基づき創設されていた警察予備隊が52年に保安隊と改組・改称され、54年には新たに自衛隊として再編・強化された。
 こうしてあたかも幼虫からさなぎを経て成虫となる昆虫のような形で誕生した自衛隊は、指揮系統、階級、司法手続き等の点でなお軍隊とは異なる要素を残していたものの、陸・海・空三部門を擁し、日本の国土防衛を主任務とする専門的な常設武装組織として立ち現れたから、自衛隊の発足は事実上の再軍備に等しいものと言ってよかった。
 自衛隊の存立根拠は新憲法には全く見えず、直接的にはサ条約と同時に締結された日米安全保障条約(旧安保条約)及びそれを補充する54年のMSA(相互防衛援助協定)に置かれていたから、これらの日米条約は理論上はともかく、政治的には日本国憲法よりも上位の規範文書とされていたのである。
 さらに、占領=革命下で地方自治と符丁を合わせて分権化された警察組織を再び中央集権的に再編する新警察法の制定も自衛隊発足と同じ54年に成った。これに先立ち、戦前の悪名高い秘密政治警察として廃止されていた特別高等警察(特高)を引き継ぐ公安警察が創設されたことと併せ、政治的かつ集権的な国家警察組織も立ち戻ってきた。
 さらに52年7月には同年5月1日に皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突して多数の死傷者を出した「血のメーデー事件」を契機として、破壊活動防止法が制定されている。
 同法は特高が政治犯取締り法規として濫用し、特高とともに廃止されていた旧治安維持法よりは穏健な内容にとどめられていたものの、支配層の思惑の上では同法の復刻版と言うべき治安法規であって、その所管・執行機関として法務省に公安調査庁が設置された。
 これはすでに51年に戦前における思想弾圧の中心を担った思想検事の流れを汲む公安係検事が創設されたこととも合わせ、治安面での「逆コース」の要であった。
 こうして軍事・治安分野での「逆コース」と同時に、国民形成に関わる教育分野も「逆コース」のもう一つの主要な舞台となった。その出発点はやはり自衛隊発足年の54年、公立学校教員の政治活動を広範囲に禁じたいわゆる「教育二法」の制定であった。さらに56年には米国の制度にならって教育行政の分権化・民主化の目的で導入されていた地方自治体教育委員会の委員公選制が任命制に切り下げられた。
 以上のような上部構造に係る「逆コース」に比べ、下部経済構造に係る「逆コース」の開始はやや遅れるのであるが、それでも53年には大資本中心の経済体制を復活させるべく、企業結合の規制緩和を柱とする独禁法改定がなされ、55年には財閥解体を目指した過度経済力集中排除法も廃止となった。
 こうした「逆コース」を追い風として早くも憲法改正問題が浮上し、54年に吉田茂の後任として首相に就任した戦前の文部大臣経験者で、いったんは軍国主義者として公職追放されていた鳩山一郎の下で、改憲準備組織の性格を持つ内閣憲法調査会が設置されることとなった。
 結局のところ、この時期の改憲は実現しないのであるが、改憲問題の提起は「逆コース」の始動を明瞭に象徴する出来事であったことは間違いない。

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