第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92
〔五〕冷戦終結と湾岸戦争
1年半余りで退任した竹下首相の後任には、竹下派の支持を受けて中曽根派幹部の宇野宗佑が就いた。ところが、宇野首相には就任早々に女性スキャンダルが持ち上がったうえ、就任直後の1989年7月の参議院選挙で、自民党は結党以来初めて参議院で過半数を割る大敗を喫し、宇野首相はわずか2か月余りで退任に追い込まれる。
続いて、三木武夫の流れを汲む少数派閥出身の海部俊樹が首相に就いたが、実権はやはり竹下派の掌中にあった。こうして「大統領型宰相」中曽根が政権を去った後には弱体な政権が続き、「逆走」はまたも停滞期に入るかに思われた。
そうした中だるみの危機を国際情勢の激変が救った。それは89年の冷戦終結とそれに引き続く91年のソ連邦解体とであった。「逆走」の停滞の危機を国内環境的に救ったのが昭和天皇の死と改元であったとすれば、国際環境的に救ったのは天皇の死と同年の暮れに起きた冷戦終結と2年後のソ連邦解体であったと言える。
1950年に始動した戦後日本の「逆走」は結局のところ、東西冷戦という戦後の国際情勢によって支えられていたわけであるが、同時に「逆走」の長期鈍化をもたらしたのも、同じ国際情勢なのであった。
一方に米国の代理人的立場で日本の内政・経済を安定的に運営する自民党・財界があり、対する社会党・労組の背後には60年代以降日本共産党との不和対立から日本社会党支持に方針転換したソ連が介在していた。
冷戦終結はソ連邦解体の引き金を引き、ひいては日本社会党・労組勢力の後ろ盾をも失わせる結果となったのだった。日本社会党が91年のソ連邦解体からわずか5年で事実上解党したことは、決して偶然事ではなかった。
イデオロギー的な面から見ても、ソ連邦解体は社会主義・共産主義をはじめ、およそ反/脱資本主義的な思潮の退潮をもたらし、資本主義市場原理一辺倒の風潮を全世界的に作り出した。このことは、イデオロギー的には反共の流れにある戦後日本の「逆走」を加速化していくうえで、大きな追い風となっただろう。
もう一つ、冷戦終結後に起きた久しぶりの国際戦争であった湾岸戦争も、「逆走」の停滞を防ぐチャンスとなった。この時、日本は自衛隊の海外派遣を禁ずるものと解釈されてきた憲法9条の趣旨に沿って、イラクを攻撃する米国率いる多国籍軍への軍事協力を差し控えたのであるが―総計130億ドルの資金拠出は行った―、このことが米国の不興を買ったものと理解され、自衛隊の海外派遣解禁へ向けた論議がにわかに高まる。
その結果、91年には自衛隊史上初めての海外任務として海上自衛隊の掃海艇部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣されたのを皮切りに、翌92年には自衛隊が国連平和維持活動に参加することを可能とするPKO協力法が制定された。ここに自衛隊の専守防衛原則は崩れ、以後自衛隊の海外派遣の実績が積み上げられていく。
このことは、「逆コース」施策の目玉として50年代に誕生した自衛隊が単なる「自衛隊」から、実質上の「軍隊」へ向けて逆成長していく出発点ともなった。それは93年に始まる「逆走」加速化の合図と言えたかもしれない。