麻生太郎副総理による「ナチスの手口模倣」発言は当然にも内外に波紋を広げ、多くの糾弾も行われているが、ここでは糾弾はひとまず脇において麻生発言を分析の対象としてみたい。
まず麻生氏自身の釈明によれば、この発言はナチスの価値観を肯定したものではなく、自民党が結党以来の宿願とする改憲の手法に関して、喧騒の中で改憲するよりも国民が知らない間に憲法が変わっていたというやり方のほうが妥当だとし、その事例としてナチスによるワイマール憲法廃棄を引いたものであるらしい。
発言者自ら撤回したとおり、例示の不適切さはともかくとしても、国民が知らない間に改憲するという手法なら、日本ではすでに行われてきている。いわゆる「解釈改憲」という特異な手法で、特に憲法9条はこのやり方によって自衛隊の存在そのものの容認から始まり、海外派遣、イラク戦争をはじめとする米軍への軍事協力となし崩しに容認され、さらに今や集団的自衛権についても解禁されようとしようとしている。
これらは、まさに(一部の国民しか)知らない間に、司法府ではなく行政府の解釈を通じて実質上の改憲を進めていくという―麻生氏の理解によれば―「ナチス的手口」に当たることになるだろう。
ただ、ここで不可解なのは、自民党が宿願とする改憲は、こうした「解釈改憲」ではなく、まさに憲法96条の改憲手続を通じた正面からの憲法改正、しかもかれらの理解によれば占領下で強いられた屈辱的な「押し付け憲法」である現行憲法の実質的な廃棄とかれらの言う「自主憲法」の制定なのであるから、これは国民が知らない間にできることではなく、最終的には国民投票という「喧騒」を経て決着することである。
現行憲法は麻生氏の期待に反し、「ナチス的手口」を許さないようにできているのである。麻生氏は立法府のベテランとして当然そのことを承知しているはずであるのに、なぜあえて「ナチス的手口」を教唆したのだろうか。
穿った見方をすれば、麻生氏は実際にナチと同様、国家緊急事態を発動しつつ、憲法の改憲手続を踏まない非立憲的な手法で実質上の憲法廃棄を実現しようと秘かに考えているのではないか━。
そうだとすると、これは単に「手口」の問題を超えて、価値観においても民主主義の否定というナチス的なものへの親近を示すことになり、大問題である。
これが穿ち過ぎで、結局は麻生氏のいつもの品の悪いジョークだったとしても、現職の、しかも副首相格の閣僚が改憲の手法に関してナチスを例に引くことは、誤解という以上の不信と衝撃を内外に与え、日本の国際的信用と尊敬という愛国者麻生氏も重視するであろう国益を損なう不当な言動であることに変わりはない。