ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後日本史(連載第16回)

2013-08-13 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔四〕「天皇崩御」と尊王モード

 5年近くに及んだ中曽根政権が1987年11月に退陣した後、中曽根の「裁定」により田中角栄の流れを汲む竹下登が政権に就いた。田中本人は85年に病気で倒れ、すでに影響力を失っていたが、代わって田中と袂を分かつ形で独立した竹下を中心とする勢力が新たに自民党内最大派閥として台頭していたのである。
 そうした強力な支持基盤を持つ竹下政権は中曽根政権が構想を掲げただけで果たせなかった売上税(消費税)の導入を改めて政権課題とし、86年総選挙での大敗の後、再起しつつあった社会党を中心とする野党勢力の反対を振り切って実現させた。しかし折から発覚したリクルート汚職事件の影響から、世論の批判を追い風とする野党の突き上げを受け、竹下政権が長期政権化する可能性は急速に失われた。
 こうして再び「逆走」の停滞が起こりかけたとき、それを救ってくれるような大きな出来事が80年代の終わりに起きた。それは昭和天皇の発病・死去であった。
 天皇は87年に内臓の病気で歴代天皇では初となる開腹手術を受けていたところであったが―これも「玉体」にメスを入れることのタブーが解けた象徴天皇制ならではのことであった―、88年9月に大量吐血し、病床に臥せた。この時点から、宮内庁を中心に天皇の「ご病状」がマスメディアを通じて「大本営発表」式に刻々と報道され、社会現象となった。
 結局、すでに87歳の高齢に達していた昭和天皇は治療の甲斐なく、89年1月に永眠し、戦争をはさんで60年以上に及んだ長い昭和の時代が幕を閉じた。元号は昭和から平成へ変わる。
 この63年ぶりの改元は、昭和生まれの国民にとっては初の経験となる「天皇崩御」とともに、元号と結びついた天皇の存在性を改めて国民に強く意識させることとなった。
 この間、天皇の発病から死去に至るまで、多くの社会的行事が中止ないし縮小されるなど、社会全体が「自粛」ムードに支配され、尊王がモードとなった。こうした「自粛」を政府が直接に主導した形跡はないが、皇室行政を担う宮内庁が前面に出て報道管理を徹底したことで、間接的には政府が尊王モードを醸成したと言ってよいだろう。
 このことは、10年後、平成天皇在位10周年の節目に当たって、多数の芸能人を含む著名人を動員しての大規模な奉祝式典が挙行され、再び「天皇陛下万歳」の唱和が鳴り響く時代の序章となり、平成の時代に「逆走」がさらに加速化・急進化していくうえでの精神的なベースともなったのである。
 こうして、こちらもすでに命脈が尽きかけていた竹下政権は、改元と昭和天皇の葬礼という時代を画する任務を最後の仕事として、89年6月に退陣した。  

コメント