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戦後日本史(連載第18回)

2013-08-27 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔一〕細川政権と小選挙区制移行

 ソ連邦解体目前の1991年11月、リクルート事件後の中継ぎ登板という役割を果たして退任した海部首相に代わって、大蔵官僚出身の宮沢喜一が首相に就いた。
 宮沢は高度成長期の池田勇人首相側近として頭角を現し、池田の流れを汲む有力派閥の領袖となっていたが、その首相就任に当たっては竹下派の少壮幹部として党内で台頭してきていた小沢一郎の尽力があったため、宮沢政権も結局は竹下派の影響下に置かれた。
 しかも、宮沢政権は折から発覚した東京佐川急便事件―竹下派実力者・金丸信が東京佐川急便より5億円の闇献金を受けたとされる疑惑―を受けて金丸が議員辞職した後の竹下派の内部抗争に巻き込まれたうえ、小選挙区制導入をめぐる党内対立も勃発するなか、「政治改革」の切り札として小選挙区制導入を主張する小沢とその配下のグループは、野党提出にかかる宮沢内閣不信任案に賛成したうえ、集団離党し、新党結成に動いた。
 こうした党内造反によって成立した内閣不信任決議を受けて93年7月に行われた解散・総選挙で、ついに自民党は衆議院でも史上初めて過半数割れする大敗を喫した。
 この時の総選挙では保守系新党ブームが巻き起こり、特に自民党出身で前熊本県知事の細川護熙が結成した日本新党が注目を集め、細川自身を含む35人の当選者を出した。小沢らが結成した新生党も55議席を獲得する。
 自民党も過半数割れしたとはいえ、なお優勢な比較第一党の座を守ったため、日本新党を含む新党との連立を通じた政権維持を画策したが、不調に終わり、ついに同党は史上初めて下野することとなった。
 一方、小沢一郎は細川を首相に擁立しつつ、総選挙では議席半減の歴史的惨敗に終わった社会党も抱き込んだ八党連立内閣の結成を画策し、成功した。こうして、93年8月、初当選者が首班となる異例の細川連立内閣が発足する。
 世上、これをもって「55年体制」の終焉と称されることが多いが、それは必ずしも正確ではない。たしかに自民党は下野したが依然最大党派であったし、一方、細川連立内閣では惨敗した社会党が数的には与党第一党であったので、結局のところ「55年体制」のキープレーヤーであった自民・社会両党がそれぞれ敗北しつつ、与野党入れ替わったにすぎないとみる余地が十分あるからである。
 とはいえ、小沢や細川ら新政権の実力者が構想していたのは、「55年体制」を解体し、自民党ともう一つの保守系政党が政権交代し合う二大政党政治の構築であった。
 このようにブルジョワ二大政党が政権をキャッチボールし合う形の二大政党政なら、つとに戦前昭和初期に経験済みであったが、細川政権の使命は、その一見清新なイメージとは裏腹に、そうした古い政治への「逆走」を加速化させることにあったとさえ言える。
 それゆえ細川政権最大の使命は、従来社会党やその他の小政党にも一定以上の当選者の確保を可能にしてきたいわゆる中選挙区制に代え、一選挙区一当選人原則で、二大政党化を導きやすいとされる小選挙区制を衆議院に導入することであった。
 細川内閣は細川自身の東京佐川急便からの過去の借入金疑惑をきっかけとしてわずか8か月余りで総辞職したが、小選挙区制導入を柱とする「政治改革」だけはすみやかに実現され、94年から施行されたのであった。
 今日まで維持されている新たな小選挙区制は、比例代表制並立という形で修正されているとはいえ、組織動員選挙に長けた自民党にとってはさほど痛手とはならない一方、すでに弱体化していた労組に依存する社会党にとっては壊滅的打撃となりかねない制度であって、その狙いは自民党を含むブルジョワ保守総体による「社会党潰し」にあったと言って過言でなかった。
 にもかかわらず、社会党は占領期の片山内閣以来45年ぶりとなる政権与党の地位と大臣ポスト欲しさに細川連立内閣に参画し、自らの命脈を縮めるような罠にはまったのだった。

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