第一部 農民階級の誕生
序章 最初の階級分裂
農耕の創始と農民の誕生とは一致しない。農耕の開始がいつどこでか?という問いはここでの主題ではないので立ち入らないが、その答えの如何にかかわらず、農耕が創始された当初、農耕は共同体成員全員が従事する共同作業だったと考えられるからである。
そのことの裏付けとしては、現時点では世界最古級の農耕遺跡と見られる現シリア領内のテル・アブ・フレイラ遺跡(推定1万年前)では、発見された人骨にほぼ共通して重労働の痕跡が見られることが挙げられる。
ある意味では、原初の農耕共同体においては全員が農民だったとも言えるが、全員が農民ということは農耕に専従する階級として農民はまだ誕生していなかったことを意味している。おそらく先史農耕時代は、それ以前の狩猟採集生活様式がまだ並存しており、農耕は植物採集から派生した新しい共同生産活動であったと考えられる。
人々をそうした新たな生活様式の開始に赴かせた要因は、気候変動にあったようである。すなわち、上記遺跡を含む北半球高緯度地帯では、従前の氷河期の終焉後、温暖化を経て、再度寒冷期に入り、寒冷乾燥化により野生の食用植物が不足したため、採集から栽培へと移行せざるを得なかったというのである。
さしあたり農耕は世界各地で相互に関連なく継起的に発祥したと理解するとして、おそらくどの地域においても、人間が観念的に思念して農耕を開始したのではなく、環境的な要因によって採集が困難になったことで、必要に迫られて開始したものと考えられる。
そういう偶発的な発祥であれば、農耕に専従する農民という階級も存在しなかったのは当然であるが、農耕が拡大し、農‐業として一個の産業化されるにつれ、生産力も向上し、共同体に食糧ストック―ある種の現物資本―が蓄積される。
そうなると、共同体内に重労働の農作業を他人に強いて自らは管理的な任務に従事する人間が立ち現れる。たいていは共同体の長老級人物であろう。長老らは次第に世襲の管理者階級となったかもしれない。かれらの指揮下で農業に専従する者が農民として固定された。人類史上最初の階級分裂である。
残念ながら、先史農耕遺跡からそうした最初の階級分裂の痕跡を明確に裏付けることはできないようだが、農耕が発達した各地域が後に高度な文明圏へと発展し歴史に登場した時には、すでに農民は従属階級化されていた。
ただ、各文明圏における農民の地位や生活状況には特色が見られるので、続く第1章では代表的な各古代文明圏における農民の実像を可能な限りで再現してみることにする。