第1章 古代文明圏における農民
(2)エジプト文明圏及び黄河文明圏
古代エジプトは、西アジアとも接続し、農耕に関してもその影響を受け、ナイル河流域の肥沃な土地で灌漑農業を発達させた。しかし、その発展方向は相当に異なっていた。
エジプトでは当初、ナイル上下流域に多数の農耕共同体が形成されていたが、氾濫性の強いナイル河の治水と灌漑を集中的に進める上では、多岐に分かれた共同体は不便であることから、共同事業を進めるための統一が必要とされた。
その要請から、まず紀元前3000年代中頃に上下流域が各二つの王国にまとまるが、やがて上エジプトが下エジプトを併合する形で、統一エジプト王朝を樹立する。こうして、エジプトでは各農耕共同体が都市国家に発展するのではなく、統一王朝へと止揚されていったのであった。
このような治水・灌漑技術を基盤とする王朝は、後半で見る中国とも共通性を持つ。エジプト統一王朝における農民は当初、その大半が農奴であった。その点で、エジプトはヨーロッパに先駆けて農奴制を組織した体制であると言える。
王国形成の経緯からも、農業は当局の中央管理下に置かれ、水利監督官によるナイル河の厳正な水位計測に基づく収穫予測に基づき、収穫管理と徴税、非常備蓄も行なわれるなど、計画経済的な要素を帯びた計画農業が実施されていた。
しかし、土地はその大半を国王から封じられた貴族が所有するある種の封建制の原型であったが、土地と貴族身分は必ずしも世襲的ではなく、国王の地位や王統と同様、変動しやすく、安定的に確立された封建制とは言えなかった。そのため、エジプト純正王朝としては後期となる新王国時代になると、農奴制も崩れ、自作農や契約農(農場労働者)も増加していった。
その後、ギリシャ系のプトレマイオス朝は異民族支配体制として、産業の王室独占政策を敷き、農民も「王の農民」とみなして、搾取するようになった。重税への不満は農民の逃亡を頻発させ、ひいては王国の物質的土台の衰退を促進した。
一方、中国大陸の黄河文明圏もやはり氾濫性の強い黄河流域に開かれた農耕共同体を基盤にしつつ、都市国家ではなく、統一王国にまとめられていく点で古代エジプトと似ている。伝承上最初の黄河統一王朝は夏であるとされてきたが、近年、夏朝の実在性を証明し得る遺跡が発見されている。
夏朝の創始者とされるのが禹であるが、禹の最も知られた業績が治水事業であることは偶然ではなく、黄河文明圏の成り立ちを物語っている。禹は伝説的な王であるが、近年、紀元前2000年頃と見られる黄河大洪水の痕跡が見つかり、伝承上の夏王朝創始年とも重なる。
おそらくその頃、大洪水からの復旧・復興事業を大規模に進めるうえで、統一王権の必要性が生じ、従来の流域共同体を束ねる存在として、禹に相当するような土木指導者が出現し、統一王国が建設されていったものと考えられる。
その後、実在性が証明できる統一王朝として殷商が現れ、次いでこれを打倒して周が成立する。この時代の農民の地位について詳細は不明であるが、古代エジプトとは異なり、古代中国では農奴制は成立しなかったようである。
それどころか、周の時代には井田制と呼ばれる一種の土地共有制が存在したとされる。これは、田を井の字型に九等分したうえ、その一区画は八家族共有の公田とし、その余の八区画は各家族の私田とするという制度である。
もっとも、この制度は伝承性が強く、史実としての検証は困難であるが、少なくとも、農奴制に近い後の佃戸制のような搾取制度の出現は遠く唐末のことであり、古代中国では自立農が多かった。
自立農は戦国時代、兵士として諸侯によって動員され、中核的な戦力となった。これにより、農民=兵士の力量が増していくことは、やがて農民反乱が歴史の動因となる中国史を形作ることになったであろう。