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農民の世界歴史(連載第9回)

2016-10-24 | 〆農民の世界歴史

第二部 農民反乱の時代

第3章 中国の農民反乱史

(1)歴史的動因としての農民反乱

 農民階級は歴史上とてつもなく長い闘争を続けてきた。その主要な形態は一揆的な反乱であった。その点、自給自足農民は反乱しない。自己完結的な自給自足が成り立っている限り、反乱する必要がないからである。
 農民反乱は、皮肉なことに、農業生産力が向上して農民が階級的に分岐し、かつ社会上層による農民搾取のシステムが構築されたことにより、発生するようになった。そうした農民搾取のシステムは、これまた皮肉なことに、「文明的」な社会であればあるほど精緻に構築されていった。
 そのため、農民反乱の頻度やその期間には地域的な差異が大きいが、歴史上は中国における農民反乱が頻度・期間の点で最長である。それは中国史のほぼすべてと言ってよいほどであって、以前の連載『世界歴史鳥瞰』でも触れたとおり、中国史においては、農民反乱が歴史的な動因となっている。
 記録に残る限り最初の大規模な農民反乱は、秦末に起きた陳勝・呉広の乱と見られる。もっとも、秦を短期間で滅亡させたこの乱は陳勝・呉広という農民出身兵士に率いられた軍事反乱の性格が強かったが、中国では戦国時代から諸侯が農民を兵士として動員するシステムが構築されていた。
 秦もそうしたシステムを継承していたわけだが、この反乱自体は全く単純な動機から起きた。すなわち、秦法では兵士の配置遅れは死罪とされていたところ、辺境警備のため動員された陳勝・呉広らは大雨にあい、遅延が確実となったため、死刑を免れるため、反乱に出たのである。
 すでに始皇帝は亡く、無能な二代目皇帝の下で弱体化していたこともあり、反乱は簡単に成功し、首謀者陳勝は一時王に即位し、国号張楚を称した。これは通常、正式の中国王朝に数えられることはないが、中国史上初の農民出自王朝の成立であった。
 しかし陳勝に統治能力はなく、秦残党勢力の反撃にもあい、張楚はあえなく崩壊する。しかし、陳勝らの始めた反乱はすでに対秦レジスタンスの様相を呈していた。そうした中、反乱軍の武将から身を起こしたのが、漢帝国の建国者となる劉邦であった。
 劉邦の生家は農家であったが、三男の劉邦自身は農業をせず、反乱に参加する前は任侠的な無頼生活を送っていたとされる。とはいえ、出自階級から言えば農民出身であり、劉邦の子孫が皇帝を継ぎ、前後400年に及んだ漢帝国は農民出自王朝であった。
 だからといって、漢帝国が農民を特に厚遇したわけではないが、7代武帝時代の財政再建策では農民より大商人への増税を図ったことには、農本主義への傾斜も見て取れる。しかし、膨張主義的な武帝時代の軍事行動の増発の結果、徴兵された自作農の農地放棄と富裕層による土地の取得を通じた大土地所有制の出現という古代ローマと類似した問題が立ち現れた。
 12代哀帝の時には大土地所有を制限する限田策を試みたが、予想どおり既得権益層の強い反発を受け、失敗に終わった点も古代ローマの土地改革の軌跡と似ている。漢時代の大土地所有者であった地方豪族の多くは富農の成り上がり組であったが、こうした社会構造にも農民出自王朝としての性格が滲み出ているかもしれない。
 これら地方豪族の力を背景に漢帝国を再生して成立した後漢の時代、地方豪族らは官僚として中央に進出し、既得権益を防衛したため、土地改革が進む余地はなくなった。地方豪族の農地は一種の荘園と化し、小作人や農場労働者など従属的な下層農民の階層分化を促進した。豪族勢力はまた、中央で増長してきた宦官勢力と激しく対立し、民衆の困窮をよそに権力闘争を繰り広げた。
 そうした中、後漢末には張角が創始した太平道なる道教系宗教集団に影響された農民反乱・黄巾の乱が勃発し、漢の衰退を促進した。このように農民反乱が宗教的に鼓舞される構図はこれ以降、中国史の特色となる。

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農民の世界歴史(連載補遺)

2016-10-24 | 〆農民の世界歴史

第2章ノ2 イスラーム世界における農民

 砂漠の民アラブ人が創始したイスラーム世界は元来、遊牧民の世界である。遊牧という生活様式は、農業の延長的営為である牧畜が可動式に発展した後発の生活様式と考えられている。どのような経緯によってか砂漠地帯に進出したセム系民族のアラブ人は、先駆的な遊牧民の一つである。
 かれらもオアシスで農耕をしないわけではなかったが、イスラーム教団の征服活動によって広がった非砂漠地帯での農業は被征服民の隷従的な任務であった。特に大穀倉地帯を擁するエジプトがイスラーム世界に入ってくると、この地の被支配層に組み込まれた農民たちは支配層のアラブ人とは区別され、フェッラーと呼ばれた。
 フェッラーは西欧の農奴とは異なり、被征服者として重税を負担させられながらも自由農民であった。イスラーム世界では西欧のような形態の農奴制が成立することはなかった。フェッラーにはハラージュと呼ばれる一種の地租が課せられ、初期には負担に苦しみ逃亡する者もあった。
 しかし、アッバース朝はハラージュをアラブ人土地所有者にも課す平等課税制度を確立したため、中近世西欧や日本で頻発する農民反乱はイスラーム世界では見られなかった。もっとも、アッバース朝下、イラク南部のメソポタミア文明故地では有力者が保有する私領地で、東アフリカ沿岸地域から連行した黒人奴隷ザンジュを使役したプランテーションが大々的に営まれた。
 ザンジュの待遇は劣悪だったため、869年、一人のアラブ人革命家に煽動されたザンジュの大規模な反乱が勃発した。これはアッバース朝弱体化の隙をついて革命に発展し、10年以上にわたり、複数の都市を占拠して一種の地方革命政権を樹立した。しかし、これは農民反乱というより、奴隷反乱であった。
 農奴制が成立しないことは、イスラーム勢力がイベリア半島を支配し、ヨーロッパ侵出を窺うようになった時代も同様であった。この時代のアンダルシア地方は8世紀から13世紀にかけてのイスラームの黄金時代と呼ばれる一時代におけるアラブ世界における農業革命の中心地ともなった。
 この農業革命の土台は、水資源が限局された乾燥地帯でも農業生産力を確保するペルシャの地下用水技術(カナート)の導入にあったと考えられている。その点では、イスラーム勢力によるペルシャの征服が画期点となったのだろう。
 ちなみに、アンダルシアは多数のすぐれた農学者を輩出しており、彼らの研究成果を基にした集大成が、イスラーム時代の12世紀セビリアの農学者イブン・アルアッワームが著した全35巻にも及ぶその名も『農書』である。

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