第二章 奴隷制廃止への長い歴史
アメリカ内戦と奴隷解放宣言
19世紀前半のアメリカでは、奴隷制廃止の進む北部と奴隷制に固執する南部の亀裂が深まっていたが、1850年代は南部の奴隷諸州の力が連邦レベルで拡大する反動期であった。
前にも見た奴隷の逃亡を抑止するための1850年の逃亡奴隷法に加え、1854年のカンザス‐ネブラスカ法では、カンザスとネブラスカの両準州の創設に当たり、奴隷制を認めるか否かを開拓住民の判断に委ねることとされた。これは事実上、奴隷制の拡大を認めるに等しい大きな後退であった。
さらに57年には、連邦最高裁判所がアフリカ系の子孫はアメリカ市民権を得ることはできず、連邦議会は連邦領土内で奴隷制を禁ずる権限を有しないとする判決を下した(ドレッド・スコット対サンフォード判決)。司法部も奴隷制擁護の立場を鮮明にしたことになる。
これに対して、急進的な奴隷制廃止活動家ジョン・ブラウンは武装反乱のような直接行動を訴え、59年、奴隷州の中心であったバージニア州で連邦武器庫を襲撃し、反乱を企てるが失敗し、処刑されるという事件も発生した。
こうした騒然とした対立状況の渦中で登場したのが、共和党初の大統領となったエイブラハム・リンカーンであった。リンカーンは弁護士からイリノイ州議会議員や連邦下院議員を経験した奴隷制廃止論者としてカンザス‐ネブラスカ法やドレッド・スコット対サンフォード判決に対して明確に反対の論陣を張った。
リンカーンはブラウンのような急進論者とは異なり、漸進的な奴隷制廃止を唱える中道派の中心人物であったが、奴隷制諸州にとっては急進も中道も大差はなく、忌避すべき人物であることに変わりなかった。
そういうリンカーンが1860年大統領選挙に勝利すると、南部奴隷諸州は次々と連邦離脱の動きを示した。妥協の試みは失敗し、南部11州は同盟してアメリカ連合国を結成したことから、アメリカはこれまでのところ史上唯一の内戦(南北戦争)に突入していく。
その渦中で、リンカーン大統領は有名な「奴隷解放宣言」を発した。戦争は北部の勝利に終わり、戦後の65年、憲法修正13条が追加され、ここに奴隷制の完全な廃止が実現したのであった。
これにより、黒人奴隷の解放は進んだが、南部では黒人に公民権は保障されず、日常生活域も分離する人種隔離政策に形を変えて黒人差別の構造が存続していく。これが転換するのは、奴隷制廃止運動に代わる公民権運動を経た1964年の連邦公民権法の成立以降のことである。
南北戦争から100年がかりであり、公民権法を推進したケネディ大統領も、奴隷制廃止に尽力したリンカーン大統領と同様に暗殺される運命をたどったことも偶然ではないかもしれない。