第二章 奴隷制廃止への長い歴史
「苦力」労働制への転換
19世紀前半から欧米諸国での奴隷制度廃止の動向が広がるにつれ、奴隷労働力を補填する何かが必要とされるようになった。というのも、奴隷労働力が主に投入されていたプランテーションでの集約労働そのものの需要は何ら変わっていなかったからである。
そこで新たに編み出されたのが、主として中国人やインド人のようなアジア系移住労働者を使役するシステムであった。かれらは奴隷そのものではなかったが、多くは騙されたり、拉致された末に過酷な労働に従事させられた者たちで、実質上は奴隷と同様であったから、「苦力」(クーリー)と称された。
こうした奴隷⇒苦力への転換を象徴する人物として、ジョン・グラッドストンがいる。後の英国首相ウィリアム・グラッドストンの父でもある彼はカリブ海域で多くのプランテーションを経営する奴隷所有者であったが、1833年奴隷廃止法により奴隷を解放せざるを得なくなるや多額の補償金を得たうえ、いち早くインド人苦力に置き換えを図ったのである。
こうした苦力労働者の徴用・輸出は専門のブローカー業者が差配し、組織的に行なわれたので、奴隷貿易とパラレルな関係において、苦力貿易のシステムがグローバルに構築された。このような労働システムを作り出したのも、奴隷制度廃止に大きく寄与した英国であった。
最初の本格的な苦力船は1806年、中国人を乗せてカリブ海の英国植民地トリニダード(現トリニダードトバゴ)に向かった。これを皮切りに、世界の英国植民地に中国人苦力が送り込まれた。さらにアヘン戦争後の南京条約は中国人苦力の輸出に拍車をかけ、米国もこれに続いた。
米国では、カリフォルニア州を中心に10万人を越す中国人苦力が送り込まれたと見られる。かれらは主に鉄道建設に投入され、特に米国産業革命の大動脈となる大陸横断鉄道の建設がその代表事例である。人道的批判を受けたカリフォリニア州は、1879年の州憲法で中国人苦力労働を「奴隷制の一形態」と認め、その恒久的廃止を明記した。
一方、インド人苦力の使役も同時期に盛んとなったが、これも英国が先鞭をつけ、世界中の英国植民地で活用された。ことに今日ではインド洋の観光リゾートとして知られるモーリシャスは1829年以降、50万人を越すインド人苦力が継続的に送り込まれた「苦力の島」でもあり、往時の苦力収容施設アープラヴァシ・ガートは現在、世界遺産に登録されている。
インド人苦力は自発的な移住労働者が多かったと見られているが、その渡航船の環境は劣悪であり、虐待や女性への性暴力がはびこり、現地での労働条件も過酷であった。英本国では人道的な見地からの批判が高まり、苦力労働は1916年に禁止されるに至った。
奴隷的な苦力労働は20世紀初頭には消滅するが、外国人労働者を底辺労働に投入する慣行自体は現代まで引き継がれており、その実態はしばしば奴隷的である。その意味で、苦力労働は前章でも見た現代型奴隷制の一種である隷属的外国人労働の原型とも言えるものであった。