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犯則と処遇(連載第18回)

2018-12-27 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(上)

 刑罰制度は人の生と死の法的な定義をも司っているため、犯罪各論の領域における生命に対する罪は最も重要な位置を占めている。言うなれば、刑罰制度とは生命を司る神の代理人でもある。
 刑罰制度の生命への対し方は、実際、生命の神秘化である。明言するかどうかは別として、刑罰制度は生命を神からの授かり物とみなす。そのため、生命に対する罪は「涜神罪」―今日では多くの国で廃れている―に準じた地位にある。
 一方で、近年は生命の始まりと終わり、すなわち生と死とに対する各人の自己決定を重視する考え方も有力化してきている。この考え方は、当然にも「生命の神秘化」とは対立関係に立つ。そこから生命に対する罪のあり方をめぐっては、伝統的な刑罰制度では解決し難い種々の難問が生じてくるのである。

 まず生命の始まりをめぐっては、胎児を中絶してそもそも出生させないことを犯罪行為とする堕胎罪にまつわる難問がある。胎児はまだ人ではないが、一個の生命体であることは間違いない。そこで、その胎児を「殺す」堕胎は今日でも日本を含む少なからぬ諸国で犯罪として規定されている。
 堕胎罪とは、裏を返せば、妊娠した女性に出産を強制することである。しかし、出産は女性に肉体的な負担―時に死にも至る―を強いるばかりでなく、人生設計をも大きく左右する一大事である。堕胎罪を厳格に適用すれば、極端には、性的暴行の結果妊娠しても、女性は犯人の子を出産して母とならなければならないという冷酷な運命を課することになってしまう。

 女性の権利の尊重に対する意識が向上するにつれ、こうした出産を強制する刑罰への批判は高まらざるを得ず、むしろ妊娠中絶を女性の自己決定権として認める考えが優勢となる。
 もっとも、ここで言う自己決定とは、自分自身が生まれることの自己決定ではなく―それは不可能な自己決定である―、他人を産み出すことの自己決定であるから、通常の意味での自己決定とは事情を異にする。胎児は妊婦の体内で母体とほぼ一体的であり、胎児自身の自己決定は不可能であるとはいえ、妊婦に出産するかどうかの全権を与えることに反発する向きがあるのも理解できる。

 しかし、妊婦に出産を強制することの非道性ということから、結果として中絶は合法化されるべきことになる。その点で、妊娠が性的暴行による場合や出産が母体に危険を及ぼす場合のように、正当な理由がある限り中絶を認めるという折衷的な考え方も現実的な妥協点かもしれない。
 とはいえ、そもそも理由もなく思いつきで中絶しようとする妊婦などいないはずであり、「犯則→処遇」体系からすれば、通常の中絶者を生命犯として処遇すべき根拠は見出し難いから、中絶を犯則行為とみなすこと自体が不合理ということになる。
 ただし、妊婦の同意なく強制的に堕胎する不同意堕胎は、なお犯則行為として維持する必要がある。不同意堕胎は通常の中絶とは全く状況を異にし、妊婦以外の第三者がまさしく胎児を殺害することにほかならないからである。

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