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共産論(連載第2回)

2019-01-04 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

ソヴィエト連邦解体以降、「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。しかし、ソ連邦解体から時を経た現在、資本主義は大きな限界を露呈しつつある。その限界とは?


(1)資本主義は勝利していない

◇ソ連邦解体の意味
 
東西冷戦の終結に続く1991年のソ連邦解体以降、国際世論においても国内世論においても、とかく「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。要するに、米国を総本山とする「西側」の資本主義に対抗していたソ連の終焉と旧ソ連圏の資本主義への合流は、資本主義が「東側」の盟主ソ連が体現していたような「共産主義」に打ち勝ったことの証しなのだ、と。
  しかし、このような後知恵的思考の不当さはさておくとしても、それではあまりにも粗雑な即断である。そもそもソ連がまだ健在だった時代からある「ソ連=共産主義」という図式が正しくないからである。
 たしかにソ連はほぼその全史を通じて共産党が支配政党として統治していたことは事実であるが、支配政党が共産党であったからその社会体制も共産主義であったと断ずるのは早計である。そもそもソ連邦の正式国名は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(下線筆者)であって、「共産主義」を名乗っていなかったという事実をあっさり無視してはならない。
 実際、ロシア10月革命60周年の節目に制定され、ソ連型社会主義憲法の集大成と目された1977年憲法を見ても、その前文では当時のソ連社会を「発達した社会主義社会」と規定したうえで、「発達した社会主義社会は、共産主義への道における法則にかなった段階である」という命題を掲げていた。そして「ソヴィエト国家の最高の目的は社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設である」とする国家目的を明示し、共産主義社会の建設を将来の到達点として位置づけていたのである。
  しかし、この共産主義の規定は当時すでに空文と化しており、ついに実現を見ないまま1985年に登場した「改革派」ゴルバチョフ書記長(後に大統領)の下で、共産主義社会の建設という国家目的は放棄され、国営企業の独立採算制移行や私的営業の容認など市場経済的要素の導入を通じて資本主義へにじり寄っていく。
 こうしたゴルバチョフ「改革」は、西側の資本主義陣営からは当然にも歓迎されたが、その中途半端さのゆえにソ連国内ではかえって消費財不足などの経済危機を深刻化させ、ソ連の大衆生活を圧迫し、不満を高めた。
 そうした大衆の不満をも背景に、ソ連邦解体の危機をみてとった「保守派」党幹部らが1991年8月、ゴルバチョフ政権の転覆を狙ったクーデターを断行したが、この企ては「急進改革派」エリツィンとモスクワ市民の抵抗によって3日で挫折させられた。エリツィンらは返す刀で今度はゴルバチョフを実質的に失権させ、1991年12月にソ連邦の最終的な解体を主導した。
 こうしてソ連邦の仮面を脱いだロシアでは、新指導者エリツィンの下、ほとんどアナーキーな市場経済化の荒療治がもたらした経済的大混乱を経て、エリツィンを継いだプーチン大統領の権威主義的な指導の下、国家の指導性の強い新興資本主義国家として、一応の安定化が実現したのである。
 こうしてみると、資本主義が勝利したと吹聴する相手方とは「共産主義」ではなく、ソ連型社会主義―旧ソ連自身の公称によれば「発達した社会主義」―であったというのが正確なのである。
 ではソ連型社会主義とはいったいどのようなものであり、それはなぜ失敗したのであろうか。この問いはそれを解明するだけで何巻分もの書籍を要するような大テーマであるから、ここで詳論することはできないが、本書のテーマにも関連してくる限りで概観しておきたい。

◇ソ連型社会主義の実像
 
まず、ソ連型社会主義とは何であったかを簡明にまとめれば、それは国家が私企業を排除して自ら総資本家となり、国有企業体を通じて上からの経済開発を推進していくというものであった。 
 ただ、その国家を共産党が政権交代を伴わずに統治するといういわゆる一党独裁制が採用されたために「ソ連社会=共産主義」という定式が普及することとなったのだが、その実態は共産主義ではなく、「集産主義」(collectivism)と呼ぶべきものであった。(※) 
 集産主義とは要するに、資本を国家に集中したうえに、国家(国家計画機関)が立案する経済計画に従って生産・流通・消費・再生産を回していくというものであるから、一面では「国家資本主義」とみなすことも不可能ではない。
  実際、この体制の下では資本主義の主要素である商品生産と賃労働とがれっきとして存続していたのであるから、それは資本主義と完全に決別した体制ではなかったのである。
 もっとも、集産主義体制は私企業を禁圧することを通じて生産手段の国有化を実現していた限りでは擬似共産主義的な性格も帯びており、要するに資本主義でも共産主義でもない中間的な「社会主義」の名を冠することにもそれなりの理由はあるわけであるが、資本主義とは単に法的な私企業の自由だけを意味するにとどまらず、商品生産と賃労働という生産および労働の様式に関わるものであるから、そうした様式をなお存置していたソ連型社会主義=集産主義を純経済的に見たときには、「もう一つの資本主義」であったと言うことも論理上十分可能なのである。
 ここから中国の器用な経済的路線転換の成功を説明することができるかもしれない。中国では1949年の建国後、当初は共産党の指導の下、ソ連式の社会主義体制が採用されたが成功せず、ソ連のゴルバチョフ改革に先立つこと十年近く以前に、資本主義を意識した「改革開放」へ踏み切り、ソ連邦解体以降はこうした共産党の指導の下での資本主義化を「社会主義市場経済」と規定していっそう強力に推進し、事実上の新興資本主義国として急成長を遂げたのであった。
 このような中国の路線転換は、ソ連の失敗と対比してしばしば奇跡とも評されるが、実のところ、ソ連型社会主義=集産主義の実質が先述のように「もう一つの資本主義」であったとするならば、中国式「社会主義市場経済」(=共産党が指導する資本主義)とは、集産主義の一つの脱構築的な「改革」方向であったとも言えるのである。
 実はソ連においても、すでに1960年代から経済管理の分権化や利潤率指標の重視などを軸とする市場経済を意識した経済改革の波はあり、西側資本との合弁事業も開始されるなど、社会主義と資本主義の収斂化(コンバージェンス)と呼ばれる現象は始まっていたのであるが、ソ連では中国ほどには市場経済化を徹底できないまま、体制そのものが終焉したのであった。

※改訂第二版までは、ソ連型社会主義の特質を「国家社会主義」と総括してきたが、この用語はソ連と対立的だったドイツのナチズムの訳として普及してきたことと紛らわしくなるので、本版からは「集産主義」に変更する。ただし、ナチズム( Nationalsozialismus )とは、国家を超えた民族共同体の建設を呼号するアーリア民族主義に重点のある全体主義ファシズムの亜種であるので、「民族社会主義」と訳すのが最も正確であると考える。

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