勤労感謝の日という祝日は日本独自のものであるようで、国民の祝日に関する法律によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことがその趣旨とされる。元来は、宮廷行事である新嘗祭に合わせた祝日であったものを戦後、勤労感謝デーに振り替えたらしい。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」という文言からは、資本家・経営者もまた労働者の勤労に感謝するという趣旨を読み取ることもできる。そこからすると、ツイッター社を買収したイーロン・マスクの「長時間労働か、退職か」発話は、勤労感謝の対極にある勤労蔑視発話と言えよう。
この発話者にとって、労働者は企業の奴隷に過ぎず、長時間働かない奴隷など無用というわけである。このような発話が21世紀の先端的IT資本家の口から出たことは驚きではない。
IT業界と言えば、20世紀末以降現在に至るまで、新興業界の代名詞であり、カジュアルな「新しい働き方」でも脚光を浴びてきたが、一方で、一部を除き世界的なIT大手のほとんどは労働組合を拒否しているなど(外部記事)、その実態はまるで19世紀の資本である。
「長時間労働か、退職か」発話も、そうした19世紀的時代感覚を露骨に表す象徴的な言葉と言える。今日では、伝統的な大手資本の経営者なら―本心はともかく―、公には口にしない言葉である。
マスクならぬマルクスは、まさに長時間労働か退職かを迫られた19世紀の賃金労働者の被搾取的な働き方を評して「賃金奴隷」と言ったが、20世紀以降、労働法制の整備によって搾取に制約がかけられると、賃金労働者は奴隷的ではなくなった。それは主として労働時間削減の成果である。
とはいえ、労働者は制約された時間内での高密度な成果労働を要求され、経営管理者の業務命令や目標数値に束縛される限りでは、奴隷ではないが依然従属的であった中世の農奴に擬して、賃奴と言うべき存在であり続けている。
しかし、「長時間労働か、退職か」という発話は、そうした賃奴制を再び賃金奴隷制に巻き戻すかのような逆行的内容を備えている点で、注目すべきものがある。これに触発されて、他の資本も追随するなら、労働の世界は再び19世紀的状況に回帰していくだろう。
このような反動に対して、労働者はどう対応するのか。興味深いことに、2021年のギャラップ調査によると、調査対象となったアメリカ人の68%が労働組合を支持すると答え、1965年以来、労働組合運動に対する最も強い支持を示したという(上掲記事)。
近年の労組は経営側にすっかり飼い慣らされて社内機関化し、労組組織率は低下傾向を辿り、労働運動も斜陽化、5月1日のメーデーも恒例イベントと化している中、資本主義総本山のアメリカで労働運動復調の兆しがあるというのは興味深い。
ただ、労働運動の活性化と労使対決は、20世紀への巻き戻しである。現今の反動的状況下ではそれもやむを得ないかもしれないが、「勤労感謝」の精神を労使が共有することはより重要である。だが、それが真に可能となるのは、資本主義ではなく、まさに労使共産の体制下においてである。