第六章 戦後両辺境の道程(続)
【18】「沖縄返還」以後
1969年に沖縄返還が公式に発表された後も、翌70年には米軍人が起こした交通事故の処理をめぐり、旧コザ市で大規模な反米騒乱が発生するなど、不穏な情勢が続くが、72年、法的には約束どおり沖縄は日本の施政下に復帰し、再び沖縄県となった。
けれども、この「返還」は多くの沖縄人の意思とは異なり、米軍基地の存続が前提となっており、米軍はなおも駐留を続けることとなった。その裏には、後に漏洩事件化した日本側の費用負担の密約があり、日米安保条約の下で、日本側が駐留米軍を全面的にサポートする条件での「返還」であった。
その結果、沖縄県は全国の米軍施設の大半が集中する「基地の県」という現実を担わされることになった。反米闘争は新たに反基地闘争の形に変形されて、なお続いていく。
これに対し、中央政府では早速に沖縄開発庁を設置し、中央主導での沖縄経済の振興を図った。この手法は北海道開発庁を通じた北海道開発政策とパラレルなものであり(01年の中央省庁再編で共に廃止)、これで戦後の南北両辺境に対する中央政府の開発政策が出揃ったことになる。
しかし、戦後当初の革新道政が間もなく保守道政に変わり、その下で中央直結型の開発が進展していく北海道とは異なり、長く米軍支配下に置かれた沖縄の革新勢力は強力であった。米軍支配時代の民選行政主席から返還後初代県知事となった屋良の後も、78年まで革新県政が続く。任期中に病死した平良幸市知事の後、ようやく保守系西銘順治知事が誕生するが、西銘知事も元は革新系地方政党・沖縄社会大衆党の出身であった。
しかし、90年には再び革新系・大田昌秀が当選した。94年に再選された大田知事は、米軍用地の強制貸借の代理署名を拒否し、政府との訴訟に発展するなど、中央政府は返還後20年以上を経ても沖縄県政をコントロールし切れなかった。95年には、米軍兵士による少女暴行事件をめぐり、返還後最大規模の抗議集会が開催された。
この事件をも一つの契機として、大田県政時代に持ち上がった普天間基地移設問題が90年代以降、沖縄県政及び政府の安保政策上の棘となっている。この問題は日米合意により名護市辺野古への県内移設で決着したが、2009年の政権交代により成立した鳩山民主党政権がいったん県外移設に方針転換し、短期で撤回するなど、中央政府の方針も二転三転した。
沖縄でも保守化が進み、98年以降は返還後初めて二代連続で保守県政が続いているとはいえ、沖縄保守勢力も基地問題に関する限り、県民の意思に敏感であらざるを得ず、中央主導の統制は困難である。
結局のところ、「返還」されたとはいえ、元来独立国であった歴史を持つ沖縄はなおも周縁化されたまま、他方で戦後の基地依存経済からの脱却はなお途上であり、日米安保体制下での沖縄県の自立には特有の難題が残されている。
[後記]
2014年沖縄県知事選では、振り子が再び左に振れ、普天間基地の辺野古移設に反対する翁長氏が推進派の現職仲井眞氏を破って当選した。沖縄県民の投票箱を通じた“反乱”に等しい選挙結果であった。これに対し、12年総選挙で復権した自民党体制は完全無視と沖縄振興予算の減額という報復的な対抗措置をもって臨み、警察力を投入して移設事業を強行する策に出ている。ここには、中央政府の沖縄軽視の態度が如実に現れている。
ただ、中央政府を通じての対米交渉には根本的な限界があり、今後、沖縄県民は、中央政府への「降伏」か、それとも独自の対米交渉を実現するため、再び独立して外交権を回復するかの歴史的な岐路に立たされるであろう。