ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第29回)

2019-01-07 | 〆共産教育論

Ⅴ 職業導入教育

(3)インターンシップと就職支援
 基礎教育課程に組み込まれた職業導入教育の最終段階(ステップ11以降)では、インターンシップが実施される。インターンシップは代表的な職域ごとに、予め指定されたインターン受け入れ事業所で実習生として試験労働をするというものである。
 全生徒が工業、情報、事務、公務、農林、水産、研究といった代表的な職域の中から、自身が進路として関心を持つ分野を三つ選択し、それぞれの指定事業所で3か月程度実習をする。これらの職域は必ずしも生涯の職ではなく、最初の第一次的な就労先となり得るものである。
 従って、後に専門教育制度の箇所で述べるように、医療、福祉、教育、法律等々、何らかの第一次的な職業経験を持つことを条件に、所定の資格ないし免許を取得することが要求される高度専門職に関しては、基礎教育段階でのインターンシップの対象外となる。
 インターン中の生徒は労働日ごとに労働日誌の記録を義務づけられ、インターン終了後に職業導入教育専任の教員に提出し、評価を受けなければならない。一方、インターン先での指導担当者も、担当する実習生の評価書を作成し、終了後教員に送付する。
 教員はそれらの書面を総合評価したうえで、各生徒に対する就職指導の基礎資料を作成する。就職指導は生徒との対面カウンセリングの形式で行い、この場で最初の進路を決定する。この決定に際しては心理テストも実施し、適職に結びつけられる。
 進路決定に基づき、教員は職業紹介所と連携して、マッチングを行う。共産主義社会の職業紹介所は単なる斡旋機関ではなく、職業導入教育とも密接に連携し、科学的な判定に基づき、適職を配分する公的機関である。
 こうして最初の就職先が内定した後、生徒は基礎教育課程最終のステップ13を終えて、基礎教育課程修了証明書を取得して、正式に就職するのが標準的であるが、職場によって基礎教育課程修了証明書を要しない場合はこの限りでなく、未修了のままいったん就職することも可能である。

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共産論(連載第3回)

2019-01-05 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(1)資本主義は勝利していない(続)

◇ソ連型社会主義の失敗
 それにしても、ソ連型社会主義はなぜ失敗したのであろうか。最も中心的な原因は、国家による経済計画が効果的に機能しなかったことである。国家計画機関による計画とは行政官僚たる計画官僚による机上プランであったから、生産現場の感覚を離れ、「西側―わけても米国―に追いつき追い越せ!」との共産党指導部の号令に押された無理難題となりがちであった。
 より根源的には、商品‐貨幣経済を廃止しないままに計画経済を導入していたことが問題であった。貨幣は本性上計画になじまないアナーキーなモノであって、いかなる机上プランをもってしても物と金の流れを秩序正しく規制することなど果たせぬ夢であったのだ。ソ連の計画経済はしょせん欠陥のある統制経済の域を出ないものであった。逆に言えば、真の計画経済は商品‐貨幣経済を廃止してはじめて意義を帯び、有効に機能したであろう。
 加えてソ連では工業化と軍備増強を急ぐあまり、重工業・軍需産業傾斜政策が採られたことから、民生に関わる消費財の生産体制に立ち遅れがあり、西側でしばしば揶揄された商店の空の棚に象徴される品不足が恒常化し、批判的論者から「不足経済」の名を冠せられた。そのうえ品薄の消費財の質も粗悪であった。
 こうした事情から、ソ連の「発達した社会主義社会」では西側の資本主義社会と比べて消費生活の貧困を招き、大衆の不満を鬱積させていた。

◇資本主義の「勝利」と「未勝利」
 
資本主義が勝利したと称する相手方とは、実は以上のような実態を伴う集産主義であったのである。たしかに、このことは認めてよいであろう。特に消費生活の豊かさは、資本主義が最も華々しい勝利を収めたフィールドであったと言える。
 ただし、この「勝利」も留保付きのものである。おそらく戦後日本が好例であろうが、資本主義諸国も決して市場経済を野放しにしていたわけではなく、国家による経済介入によって市場を管理する仕組みも備えてきたし、部分的には国有企業も備えていた。
 またソ連モデルとの対比でしばしば理想化されてきたスウェーデン・モデルに象徴されるように、資本主義経済の枠内で労働法制と社会保障制度を整備して労働者階級の生活を支え、労使協調をもたらす福祉国家の仕組みも、程度の差はあれ資本主義諸国で発達してきた。自由放任経済体制をタテマエとする資本主義総本山・米国でさえ、1930年代の大恐慌に対応するためのニュー・ディール政策以来、同様の方向を採ってきたのであった。
 このように、資本主義の側から社会主義へにじり寄るような資本主義原理の修正も、「勝利」をもたらす大きな要因となったのである。
 しかし、資本主義がまだ勝利していない相手、それがかの共産主義である。勝利していないのはもちろん、共産主義に敗北したからではない。真の共産主義はまだ一度も本格的に試みられたことがないからである。それは資本主義にとっていまだ未知のライバルだと言ってよいであろう。ただ、この得体の知れない未知のものについて語り始める前に、「勝利」した資本主義の現況について概観しておく必要がある。

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共産論(連載第2回)

2019-01-04 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

ソヴィエト連邦解体以降、「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。しかし、ソ連邦解体から時を経た現在、資本主義は大きな限界を露呈しつつある。その限界とは?


(1)資本主義は勝利していない

◇ソ連邦解体の意味
 
東西冷戦の終結に続く1991年のソ連邦解体以降、国際世論においても国内世論においても、とかく「資本主義の勝利」がはやしたてられてきた。要するに、米国を総本山とする「西側」の資本主義に対抗していたソ連の終焉と旧ソ連圏の資本主義への合流は、資本主義が「東側」の盟主ソ連が体現していたような「共産主義」に打ち勝ったことの証しなのだ、と。
  しかし、このような後知恵的思考の不当さはさておくとしても、それではあまりにも粗雑な即断である。そもそもソ連がまだ健在だった時代からある「ソ連=共産主義」という図式が正しくないからである。
 たしかにソ連はほぼその全史を通じて共産党が支配政党として統治していたことは事実であるが、支配政党が共産党であったからその社会体制も共産主義であったと断ずるのは早計である。そもそもソ連邦の正式国名は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(下線筆者)であって、「共産主義」を名乗っていなかったという事実をあっさり無視してはならない。
 実際、ロシア10月革命60周年の節目に制定され、ソ連型社会主義憲法の集大成と目された1977年憲法を見ても、その前文では当時のソ連社会を「発達した社会主義社会」と規定したうえで、「発達した社会主義社会は、共産主義への道における法則にかなった段階である」という命題を掲げていた。そして「ソヴィエト国家の最高の目的は社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設である」とする国家目的を明示し、共産主義社会の建設を将来の到達点として位置づけていたのである。
  しかし、この共産主義の規定は当時すでに空文と化しており、ついに実現を見ないまま1985年に登場した「改革派」ゴルバチョフ書記長(後に大統領)の下で、共産主義社会の建設という国家目的は放棄され、国営企業の独立採算制移行や私的営業の容認など市場経済的要素の導入を通じて資本主義へにじり寄っていく。
 こうしたゴルバチョフ「改革」は、西側の資本主義陣営からは当然にも歓迎されたが、その中途半端さのゆえにソ連国内ではかえって消費財不足などの経済危機を深刻化させ、ソ連の大衆生活を圧迫し、不満を高めた。
 そうした大衆の不満をも背景に、ソ連邦解体の危機をみてとった「保守派」党幹部らが1991年8月、ゴルバチョフ政権の転覆を狙ったクーデターを断行したが、この企ては「急進改革派」エリツィンとモスクワ市民の抵抗によって3日で挫折させられた。エリツィンらは返す刀で今度はゴルバチョフを実質的に失権させ、1991年12月にソ連邦の最終的な解体を主導した。
 こうしてソ連邦の仮面を脱いだロシアでは、新指導者エリツィンの下、ほとんどアナーキーな市場経済化の荒療治がもたらした経済的大混乱を経て、エリツィンを継いだプーチン大統領の権威主義的な指導の下、国家の指導性の強い新興資本主義国家として、一応の安定化が実現したのである。
 こうしてみると、資本主義が勝利したと吹聴する相手方とは「共産主義」ではなく、ソ連型社会主義―旧ソ連自身の公称によれば「発達した社会主義」―であったというのが正確なのである。
 ではソ連型社会主義とはいったいどのようなものであり、それはなぜ失敗したのであろうか。この問いはそれを解明するだけで何巻分もの書籍を要するような大テーマであるから、ここで詳論することはできないが、本書のテーマにも関連してくる限りで概観しておきたい。

◇ソ連型社会主義の実像
 
まず、ソ連型社会主義とは何であったかを簡明にまとめれば、それは国家が私企業を排除して自ら総資本家となり、国有企業体を通じて上からの経済開発を推進していくというものであった。 
 ただ、その国家を共産党が政権交代を伴わずに統治するといういわゆる一党独裁制が採用されたために「ソ連社会=共産主義」という定式が普及することとなったのだが、その実態は共産主義ではなく、「集産主義」(collectivism)と呼ぶべきものであった。(※) 
 集産主義とは要するに、資本を国家に集中したうえに、国家(国家計画機関)が立案する経済計画に従って生産・流通・消費・再生産を回していくというものであるから、一面では「国家資本主義」とみなすことも不可能ではない。
  実際、この体制の下では資本主義の主要素である商品生産と賃労働とがれっきとして存続していたのであるから、それは資本主義と完全に決別した体制ではなかったのである。
 もっとも、集産主義体制は私企業を禁圧することを通じて生産手段の国有化を実現していた限りでは擬似共産主義的な性格も帯びており、要するに資本主義でも共産主義でもない中間的な「社会主義」の名を冠することにもそれなりの理由はあるわけであるが、資本主義とは単に法的な私企業の自由だけを意味するにとどまらず、商品生産と賃労働という生産および労働の様式に関わるものであるから、そうした様式をなお存置していたソ連型社会主義=集産主義を純経済的に見たときには、「もう一つの資本主義」であったと言うことも論理上十分可能なのである。
 ここから中国の器用な経済的路線転換の成功を説明することができるかもしれない。中国では1949年の建国後、当初は共産党の指導の下、ソ連式の社会主義体制が採用されたが成功せず、ソ連のゴルバチョフ改革に先立つこと十年近く以前に、資本主義を意識した「改革開放」へ踏み切り、ソ連邦解体以降はこうした共産党の指導の下での資本主義化を「社会主義市場経済」と規定していっそう強力に推進し、事実上の新興資本主義国として急成長を遂げたのであった。
 このような中国の路線転換は、ソ連の失敗と対比してしばしば奇跡とも評されるが、実のところ、ソ連型社会主義=集産主義の実質が先述のように「もう一つの資本主義」であったとするならば、中国式「社会主義市場経済」(=共産党が指導する資本主義)とは、集産主義の一つの脱構築的な「改革」方向であったとも言えるのである。
 実はソ連においても、すでに1960年代から経済管理の分権化や利潤率指標の重視などを軸とする市場経済を意識した経済改革の波はあり、西側資本との合弁事業も開始されるなど、社会主義と資本主義の収斂化(コンバージェンス)と呼ばれる現象は始まっていたのであるが、ソ連では中国ほどには市場経済化を徹底できないまま、体制そのものが終焉したのであった。

※改訂第二版までは、ソ連型社会主義の特質を「国家社会主義」と総括してきたが、この用語はソ連と対立的だったドイツのナチズムの訳として普及してきたことと紛らわしくなるので、本版からは「集産主義」に変更する。ただし、ナチズム( Nationalsozialismus )とは、国家を超えた民族共同体の建設を呼号するアーリア民族主義に重点のある全体主義ファシズムの亜種であるので、「民族社会主義」と訳すのが最も正確であると考える。

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共産論(連載第1回)

2019-01-03 | 〆共産論[増訂版]

増訂版まえがき

 当連載増訂版は、2016年から17年にかけて連載した改訂第二版を踏まえ、その後の筆者の考えの進展を反映した最新版である。とりわけ教育制度について扱った第6章、新しい革命運動及びそのプロセスについて扱った第8章及び第9章では、重要な改訂が加えられる。
 その余の部分に関しても、必要に応じて表現や用語が訂正・補充等された結果、ページ数が増えたことから、増訂版となったが、大筋では改訂第二版を踏まえているため、以下、参考までに改訂第二版まえがきを再掲することにする。

改訂第二版まえがき

 
2011年に開始した『共産論』の初版から数えて今回で計三度目の連載となる。この間、2008年に世界を襲った同時不況は大恐慌への突入を回避し、資本主義経済はさしあたり破局を免れたかに見えるが、その後も安定成長軌道に乗ったとは言えず、一国の政治経済情勢が世界経済動向に波及する不安定な状態が続いている。
 すでに爛熟状態の資本主義先発国経済の成長が限界を示す中、「社会主義市場経済」の道を驀進してきた頼みの中国を筆頭とする新興国経済の成長が鈍化してきており、市場経済総体が限界に直面している。そうした大状況の中、先発諸国においても生活難―豊かさの中の貧困―の現象が広がりを見せる一方で、世界の富のおよそ半分が1パーセントの富豪に集中するという前近代・封建時代でも見られなかったような天文学的スケールでの富の偏在も広がっている。
 それに加えて、これまで国民を保護するとしてきた国家の機能がいまだかつてないほど不全化し、難民として流出する人は戦後最多を記録、国家の機能がなお比較的維持されている諸国においても、積年の財政難や国内経済の成長鈍化、世界経済の不安定化に対応して緊縮財政に走り、生活を支える社会サービスの縮減が全般的な傾向となっている。
 改訂第2版はそのような政治経済状況下での連載となるが、初版以来の全体の基本線に大きな変更はない。ただし、司法論(第4章)と教育論(第6章)に関しては、この間に生じた筆者の考えの進展を反映して、相当な記述の改訂が加えられるであろう。その他、細かな点での記述・用語の補訂・加筆が行なわれる予定である。

 

序文

 共産主義とは何か。
 この言葉にまつわる一切の偏見も過去の教条も捨てつつ、おおまかにとらえれば、それは貨幣と国家のない世界をめざす革命的プロジェクトであると言える。
 こう聞けば、原始社会へ逆戻りするのか?!とおおかたの人は驚かれるかもしれない。それに対する答えは半分イエス、半分ノーである。
たしかに、貨幣も国家もない状態は人類的な原点回帰である。しかし本連載が提示しようとする共産主義とは文明のない原始共産主義ではなく、文明化された「現代的/未来的共産主義」である。
 同時に、それは資本主義的文明化の到達点である工業化・情報化の歪みを根底から矯正し、生態学的に持続可能で、人々の生活にあまねく資するようなものに変革していくことを目指すプロジェクトなのである。
 それでも、と問われるかもしれない。貨幣も国家もないのでは我々はいったいどのようにして生きていけるのだろうか、と。しかし、生活に即してリアルに考えてみたい。
 もしあなたが何をしようにも頭金=資本を必要とする世界―これが資本主義の最も簡潔な定義である―の中で、日々のやりくりに苦労している生活者ならば、貨幣なしに必要な物やサービスが取得できたらどんなによいことかとは思わないであろうか。
 またあなたが税金を収奪する国家に巣食う政治家や役人に苦しめられ、あるいはうんざりしている国民であれば、国家なる伏魔殿が消えてなくなってくれればどんなによいことかとは思わないだろうか。
 否、自分は人一倍の努力をし高収入を稼ぎ、高額の資産を保有しているので資本主義で結構という方もおられよう。それは立派なことであるが、しかし大規模な経済危機や突発的に生じた不幸な個人的事情から全収入・資産を失ってしまったら?そういう時こそ、国家の生活保護が頼りであるから、やはり国家は必要なのか?しかし、国家も財政破綻して財源が底をついてしまったら?
 このように考えていくと、資本主義経済とは富者にとっても「不安の経済」だと言えないであろうか。
 それはわかるが、共産主義の総本山ソヴィエト連邦の解体・消滅(1991年)によって「共産主義の失敗」は実証済みのはずであり、どんなに苦しくとも市場経済・資本主義以外に最適な道はないのではないか、というある種の諦念も世界をなお覆っているように見える。
 しかし、2008年の世界大不況、そしてその後の先行き楽観を許さない不安定で予測不能な世界経済情勢、さらに資本主義のグローバル化に伴ってますます悪化する地球環境は、資本主義の限界をはっきりと露呈させる事象ではないだろうか。
 そうした問題意識を持ちながら、まずは先入観なしに筆者と共に「現代的共産主義」の可能性を探求する旅に出ていただけたら幸いである。

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年頭雑感2019

2019-01-01 | 年頭雑感

この年頭雑感も今年でちょうど30回目を迎えた。当ブログ開設以前のものを読み返すと、主連載『共産論』で示した認識には全く到達しておらず、未熟で浅い考察が目立ち、現時点での考えとの明白な齟齬さえも見られるところであるが、筆者の30年来の思考の軌跡をたどる意味でも、恥を忍んで掲載している。

さて、昨年の漢字は、「災」であった。たしかに昨年は寒波に始まり、熱波、台風・ハリケーン、そして火山噴火など、世界中で年末まで様々な自然災害に見舞われた。しかし、このような地球規模での災害多発傾向は近年の常態であり、昨年に限ったことではない。

少なからぬ自然災害の要因と想定されている気候変動に関しては、昨年末ポーランドで開催されたCOP24会合で、産業革命以前と比べ、地球の気温上昇を2度未満に抑制することを2020年以降の目標とした2015年パリ協定の具体的ルール作りで合意した。

とはいえ、元来のパリ協定の目標設定が甘いうえに、2020年以降に先送り、人為的温室効果ガス排出ゼロは21世紀後半まで先送り―事実上の棚上げ―した二重の先送り施策でしかない。しかも、二大排出国の一つアメリカが2020年以降にパリ協定を脱退する段取りの中では、とうてい期待できる成果は上がらないだろう。

いずれにせよ、当ブログで折に触れて述べてきたように、地球を食い尽くすまで最大利潤を競争的に追求せんとする資本主義市場経済と地球環境の保護は根本的に両立しないのであるから、資本主義市場経済を絶対前提とするいかなる「環境対策」も付け焼刃でしかなく、その付け焼刃ですら、容易に折れてしまうだろう。

2010年代最終となる本年の時点で、人類が展望し得る主な選択肢は、三つである。

プランA
;環境より利潤を優先し、地球を食い尽くす

この選択肢は、資本主義市場経済の原理に最も忠実であり、野心的な資本家とその代理人政治家らが追求する道である。この選択肢は最終的に地球の滅亡へつながる道であるから、“その時”に備えて、映画さながらに他の惑星への選別的移住計画を必要とするだろう。

プランB
;環境保全の標語と甘い目標とを掲げ続ける

この選択肢は、環境保全を標榜しながら資本主義市場経済を温存せんとする諸勢力が行く道で、国際連合がその集団指導部である。この選択肢は、不可能を可能と信じる自己欺瞞―あるいは、不可能を知っている偽善か―に基づいているため、成果は上がらないだろう。

プランC
;環境保全を目的とする計画経済に転換する

この選択肢は、最も直截的かつ革命的であるがゆえに、明確にこれを志向する勢力は世界にまだ存在していない。この選択肢を採るには、一国レベルにとどまらない地球規模での根本的な社会革命を必要とするため、失敗リスクを伴う最も困難な道となるだろう。

現在のところ、人類はプランCを論外として思考から排除しつつ、プランAとプランBの間で揺れ動き、両勢力間で綱引きをしている状態であるが、このままではアメリカを味方につけたプランA勢力が最終勝者となるだろう。特に2020年米大統領選でトランプ再選となれば、その可能性は決定的となる。

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