ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第327回)

2021-11-11 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(4)ラオス社会主義革命

〈4‐1〉内乱とベトナム戦争の連動
 ラオスでは、フランスからの独立後も、君主制の下で安定した政権が樹立されず、中立派をはさんで、親米右派と、北ベトナムが背後で支援する左派が三つ巴の権力闘争を繰り広げる内乱状態に陥っていた。
 そればかりか、調整機能が期待された王権自体も、ルアンパバーンとチャンパーサックという二系統の王朝の合併(後者を吸収)によっていたため、両系統の王族が各三派に分かれて、対立し合う状態であった。
 とはいえ、1950年代後半期から、連合政権を樹立する試みも繰り返された。当初は中立派指導者でルアンパバーン系王族のスワンナ・プーマが主導して連合政府が形成されたが、間もなく旧チャンパーサック系王族ブン・ウムが指導する右派が台頭し、政権を主導する。
 これに対抗して、1960年8月に中立派の少壮軍人コン・レー大尉がクーデターを起こし、再び中立派が実権を取り戻すも、右派の反撃により、中立派政権はたちまち瓦解した。その後、三派の和平協議が進み、1962年に再びプーマを首班とする連合政権が樹立された。
 しかし、新たな連合政権も長続きせず、翌年63年には中立派要人の暗殺事件が相次ぐなど、早くも連合体制は瓦解の兆しを見せ、中立派自体もその中途半端さから、右派寄りと左派寄りの派閥に分裂していった。
 そうした中、隣国ベトナムで戦争が本格化すると、ラオスは図らずもこれに巻き込まれることとなった。南ベトナム解放勢力を支援する北ベトナムが南北ベトナム境界線となる北緯17度の非武装地帯を迂回する南ベトナムへの兵站補給ルートとして、ラオス(及びカンボジア)領内を一部通過するいわゆるホー・チ・ミン・トレイルを設定した結果である。
 この軍事行動はラオス政府の同意なしに行われており、国境侵犯に該当したが、ラオスは独力でこれに対抗する手段を持たなかった。その結果として、ラオスはアメリカ軍がホー・チ・ミン・トレイルを破壊するための作戦にもさらされ、ラオスが秘密の裏戦場となった。
 一方、北ベトナムもかねてよりラオスの左派ネーオ・ラーオ・ハク・サットを強力に支援しており、ベトナム戦争の進展に伴い、ラオス国内でも、親米右派の王国軍と左派の軍事部門であるパテート・ラオ(及び左派寄り中立派)の間での内戦局面に転化していく。
 このように、ラオスでは、1960年代半ば以降、内乱と隣国でのベトナム戦争とが密接に連動していくため、この国における革命の帰趨はベトナム戦争の経過と結末いかんにかかっていた。

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近代革命の社会力学(連載第326回)

2021-11-09 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(3)ベトナム統一社会主義革命

〈3‐2〉戦勝と統一革命
 前回述べたように、アメリカは捏造されたトンキン湾事件を口実に、1965年以降、北ベトナムに空爆を仕掛けるいわゆる北爆に突き進み、さらには親米軍事政権の支配下にあった同盟国・韓国をはじめとする同盟国の有志軍も合わせて南ベトナム上陸作戦も展開した。
 本格化したベトナム戦争の経緯を詳述することは本稿の主旨を外れるが、結果から言って、南ベトナム解放勢力NLF‐LASV及びこれを支援する北ベトナムは実質上勝利した。ここではベトナム統一革命という観点から、革命の動因となった戦争とその勝因について述べるにとどめる。
 ベトナム戦争において特徴的なのは、未完に終わっていたベトナム独立革命の続戦という意義を持っていたため、NLF‐LASVとこれを支援する北ベトナム軍の士気は一貫して高く、戦争渦中の1969年に統一革命の総帥でもある北ベトナムのホー・チ・ミン主席が死去しても影響はなかった。
 NLF‐LASV側の戦力は1960年代初頭には2万人にも満たなかったのが、同年代半ばには3倍に増強され、さらに義勇隊のような協力組織の戦力を含めれば、総計15万人近くにまで膨張していた。これは、NLF‐LASVが短期間に農村部に浸透し、その大半を支配下に収めていたことを示唆する。
 対する南ベトナム反共体制は、安定しなかった。ゴー・ディン・ジエム政権はファシズムに傾斜した独裁を強めるが、それは抗議活動を刺激し、反体制運動はNLF支持層を越えて、広範化していった。
 ジエムは1963年の仏教徒の抗議活動に際しては戒厳令を発して弾圧体制を強化するも、国際的な批判の中、後ろ盾のアメリカに見限られる形で、軍事クーデターにより失権、殺害された。南ベトナムは軍事独裁制に移行するが、75年の体制崩壊まで政権が安定することはなかった(詳しくは拙稿)。
 そうした南ベトナムを傀儡化していたアメリカによる北爆や南ベトナムで実行された数々の反人道的なゲリラ殲滅作戦は、アメリカ国内を含め、全世界的なベトナム反戦運動の波を引き起こし、戦争の道義的正当性が大きく揺らいだ。
 一方、戦争が膠着状態を続け、米軍兵士の犠牲も増大する中、アメリカでは69年、それまでケネディ、ジョンソンと二代の大統領の下で戦争を主導してきた民主党政権からニクソン共和党政権に交代し、冷戦の緊張緩和や米中接近など外交政策が転換される中、ベトナム政策も大きく変化し、和平機運が高まる。
 北ベトナム側も68年にいったん中断されていた北爆の再開で大きな損害を負い、戦争継続の余力が乏しくなっていた事情もあり、秘密交渉を経て1973年、アメリカと北ベトナム間にパリ和平協定が成立し、ベトナム戦争は終結が宣言される。
 統一革命という点では、1968年10月に当時のジョンソン米政権が北爆を一時停止した後、翌69年6月にNLFが地下政府の形で南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立し、二重権力状態となった。この臨時政府は実質的な元首格のグエン・フー・ト(肩書は顧問評議会議長)をはじめ、全員が北ベトナム労働党員を兼ねており、北ベトナムの代理機関の性格が強かった。
 和平成立後、米軍が順次撤退する中、1975年の南ベトナム首都サイゴン陥落まで二年以上のタイムラグはあるが、アメリカ軍の支援を失った南ベトナム軍の反撃力は減弱しており、北ベトナム軍の南進により、同年4月30日、南ベトナム首都サイゴンは陥落した。
 この後の統一プロセスは、南ベトナムに進駐してきた北ベトナム労働党幹部や軍の主導で行われ、南ベトナム臨時政府は実権を持たなかった。政策的にも、北ベトナム主導での統合的な社会主義政策が矢継ぎ早に施行され、南ベトナム解放闘争を担ったNLF自体も、1977年、その役割を終え、解散したのである。
 他方、旧北ベトナム支配政党の労働党も1976年の党大会をもって共産党に党名変更したが、元来同党は他名称共産党であったので、これはイデオロギーの変更を伴わない形式上の党名変更であった。
 ちなみに、旧NLF指導者グエン・フー・トは共産党が支配政党となった統一ベトナム体制下で大きな権限を与えられることはなかったが、功労者としてある種の礼遇を受け続け、国家副主席や国会議長などの要職を歴任し、1990年代まで政権要人として活動を続けた。

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近代革命の社会力学(連載第325回)

2021-11-08 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(3)ベトナム統一社会主義革命

〈3‐1〉南ベトナム解放組織の結成と展開
 1975年のインドシナ三国同時革命の発生力学において主軸的な位置にあるベトナム統一社会主義革命は、一足先に社会主義体制を樹立していた北ベトナムと、親米反共の南ベトナムに結成された南ベトナム解放民族戦線の協働関係により実行される。
 南ベトナムの前線における革命組織となった南ベトナム解放民族戦線(NLF)は、南ベトナムやアメリカ側からしばしばベトナム共産党の省略蔑称として「べトコン(Vietcong)」と称されたが、実際のところ、この組織自体は共産党ではなく、共産主義者をはじめ、南ベトナム独裁体制に反対する自由主義者や仏教徒を含む人民戦線型の共闘組織であった。
 ただし、北ベトナムの他名称共産党であるベトナム労働党の強い影響下にあったことは否めず、同党の代理組織という性格もあった。そのため、北ベトナム側の武力統一方針に沿って、軍事部門として南ベトナム解放軍(LASV)を擁し、結成時から武力闘争による革命を目指していた。
 そうした組織の性格上、北ベトナムのホー・チ・ミンのようなカリスマ性を持った指導者はおらず、戦線全体の指導者は当初空席であったが、結成から二年後の1962年になって、弁護士出身で独立運動闘士でもあったグエン・フー・トが中央委員会幹部会議長に選出され、ベトナム統一後の1977年に組織が解散されるまで同職を務めた。
 こうして、NLFは南ベトナムで武力闘争に入るが、戦争当初は南ベトナムを戦場とする内戦であったものが北ベトナムをも戦争当時者とする「ベトナム戦争」へと拡大するのは、1964年8月のいわゆるトンキン湾事件以降である。
 アメリカ側の主張によれば、1964年の8月2日と4日の二回にわたり、アメリカ海軍駆逐艦がトンキン湾の公海上で北ベトナム海軍哨戒艇の攻撃を受けたとされ、これを理由にアメリカはベトナムへの大軍の派遣を決め、ベトナム戦争が開始された。
 しかし、この戦争端緒の説明は後にアメリカのメディアによってその虚偽性が暴かれ(真実は、アメリカ駆逐艦側が北ベトナム領海内に侵入)、今日では戦時情報操作の悪質な事例として、2003年にイラクの大量破壊兵器保有という虚偽情報が開戦の口実とされた事例と並び、著名である。
 虚偽情報に基づくとはいえ、戦争が内戦を超えて北ベトナムを巻き込む複合戦争に拡大したことで、戦争の早期終結の可能性は絶たれ、10年以上に及ぶ長期消耗戦に突入するが、アメリカの支援を受けた南ベトナムとアメリカの合同軍に対して、LASVの戦力は圧倒的に劣勢であったため、農村を根拠地とするゲリラ戦を主体とする戦略を採った。
 農村遊撃戦術という点では、かつて毛沢東に指導された革命前の中国共産党が採用した戦略と共通するものがあるが、NLF‐LASVは都市部でのテロ攻撃も行ったほか、暗殺部隊を組織し、南ベトナム内で3万人を超える暗殺を実行したともされている。

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貨幣経済史黒書(連載最終回)

2021-11-07 | 〆貨幣経済史黒書

後記

 本連載では貨幣経済史の暗部を、貨幣にまつわる計40の事件・事変を取り上げて見てきたが、これらの事例は全体のほんの一部であり、取り上げるべき事例はその何倍もあるであろう。いずれにせよ、その最後を飾るのは、物体としての貨幣が姿を消して、電子的にやりとりされる価値に抽象化されてしまう暗号通貨にまつわる事件であった。
 しかし、その項でも指摘したように、暗号通貨の普及は貨幣経済の廃止を意味しておらず、単に物体としての貨幣が取引上姿を消したまでであり、むしろ貨幣が表象する交換価値はしっかりと残存しているのである。
 従って、暗号通貨にまつわる怪事件は、貨幣経済の終焉という意味での「最期」の事件ではない。貨幣経済の終焉は、まさに貨幣という有史以来の交換手段そのものが廃されることを意味しており、それこそが貨幣経済の暗黒から人類が解放される時である。
 実際、近代になって貨幣経済の廃止が構想ないし試行されたことがないわけではなかった。例えば、ロシア10月革命後、ボリシェヴィキの最も急進的な経済理論家らは貨幣経済を廃した純正な共産主義経済システムの構築を構想したが、「革命的現実主義者」が支配的な中、結局のところ、実行に移されることはなかった。
 実際に経済政策として貨幣経済の廃止を断行したのは、1970年代の革命で政権を掌握したカンボジアの共産党過激派(クメール・ルージュ)であった。かれらは原始共産制を夢想し、徹底した農本主義に立って貨幣経済を廃止したうえ、農村共同体を通じた物々交換経済を導入したが、結果は経済的な破局であった。
 有史以来の貨幣経済の廃止を突然断行すれば、大破局を来たすのは当然であり、クメール・ルージュは貨幣経済の暗黒から脱しようとして、かえって別の暗黒を作り出してしまったと言える。よって、この事例は貨幣経済史黒書の一部に含めてもよいものである。
 貨幣経済史の正しい終焉は、周到に準備された全世界レベルでの貨幣廃止のプロセスと、地球規模での共産主義経済への移行プロセスによって保証されるであろう。そのプロセスを述べることは本連載の目的を外れるので、別連載『続・持続可能的経済計画論』に譲る。
 ところで、現代の発達した市場経済では、売主側が定めた価格で商品を購入することが強制される定価制度が定着しており、価格交渉の余地のある真の意味での市場経済は、一部の伝統的なバザールやオークションのような分野に限局されている。
 しかし、真の市場経済は価格交渉の自由を伴うものであるから、定価制度に制約された経済はある種の(自主的な)統制経済であり、真の市場経済とは言えない。定価制度は、あらゆる商品について、そのつど価格交渉をすることの煩雑さと、自由価格制が経済にもたらすある種のアナーキー状態を回避するための(調整的な)計画経済とも言える側面を持っている。
 さらに、定価制度は決められた数量の商品を定められた数量の通貨と交換するという限りでは、ある種の(限定的な)物々交換経済とも言える側面を持っており、実は、貨幣経済の廃止へ向けた(無意識的な)ステップでもあると言える。
 また、従来からのクレジットによる信用取引、さらには近年の暗号通貨などのキャッシュレス化の進行は、それ自体、貨幣経済の廃止ではないにせよ、そのつど現金をやり取りする伝統的な交換取引の煩雑さ・不便さを避けたいという動機から開発されてきた仕組みであり、ここにも、貨幣経済への人類の(部分的な)忌避感が介在していると読み取ることもできる。
 貨幣経済の廃止は、決して無謀な夢想ではなく、現在も進行中である貨幣経済史の中にすでに芽生えかけているとさえ言える。だが、最終的な一歩を踏み出す契機となるのは、やはり地球環境問題であろう。この喫緊の問題を本質的に解決するうえでは、貨幣の獲得に人類が日々狂奔する経済システムを根本から撤廃するほかないからである。

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近代革命の社会力学(連載第324回)

2021-11-05 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(2)同時革命の動因:第二次インドシナ戦争
 インドシナ半島を構成するベトナム、ラオス、カンボジアの三国は、第二次大戦後、それぞれの経緯でフランスから独立を果たし、君主制のラオス、カンボジアに対し、ベトナムは独立・共和革命/戦争が1954年のジュネーブ協定でひとまず終結した後、北は親ソ社会主義、南は親米反共主義の南北分断国家となっていた。*カンボジアは、後述のように、1960年以降、半王政となる。
 インドシナ半島における新たな火種となるのは、ベトナムであった。北ベトナムの支配政党となったベトナム労働党と同党主席兼国家主席(元首)ホー・チ・ミンは、南北分断状況に対して強い不満を抱き、1959年、南ベトナム親米政権の転覆とベトナム統一を目指す方針を明確にした。
 これは単なる理念的な統一目標ではなく、「人民戦争」と銘打った現実の政策として追求されるものとなるが、南ベトナム側でもファシズムの性格を強めるゴ・ディン・ジエム独裁政権に対する党派を超えた反発が強まっていた。
 そのため、独立革命/戦争を担ったベトナム独立同盟会のうち南ベトナムに残留したグループを母体として、新たに南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成され、反共独裁政権に対する革命運動を開始した。
 これにより、冷戦時代特有の国際力学が作動し、フランスに代わって南ベトナム反共政権の新たな後ろ盾となったアメリカを中心とする西側と、NLFを支援する北ベトナム政権及びその支援国であるソ連・中国を中心とする東側の間での代理戦争としての性格を持つ内戦が勃発する。
 最終的にアメリカ及び南ベトナムが実質上敗戦し、南ベトナム首都サイゴンが陥落した後、北ベトナム主導による南北統一が成った1975年まで長期化したこの戦争は「ベトナム戦争」と通称されるが、そこには、今日のベトナム社会主義共和国につながるベトナム統一社会主義革命が内包されていた。
 一方、ラオスとカンボジアは伝統的な君主制国家としてひとまず穏健な独立を果たしていたわけであるが、ラオスでは、王統の対立も絡み、右派・中立派・左派の三派による内乱が1950年代から続き、北ベトナムと結ぶ社会主義の人民革命党の勢力が次第に増大する中、ベトナム戦争に巻き込まれる形で、裏戦場のようになっていた。
 カンボジアでは、1955年に国王をいったん退位したノロドム・シハヌークが1960年以降、国王を空位としつつ、元首として社会主義的政策を推進する特異な半王政を展開していたところ、1970年、シハヌークの親東側の姿勢を懸念する親米保守勢力のクーデターで失権した。
 その後、南ベトナムとアメリカの合同軍がカンボジア、ラオスに相次いで進攻したことで、ベトナム戦争はベトナムを越えてインドシナ半島全域に拡大された。そのため、この戦争は「第二次インドシナ戦争」に進展する。
 第二次インドシナ戦争は、ベトナム戦争を中核としながらも、戦線が拡大されたラオス、カンボジアを含めたインドシナ三国内での社会主義勢力と親米勢力の間での内戦を内包するという複雑な構造を持つ、歴史的にも同時代的にも他に完全な類例を見ないような複合戦争であり、それに伴う筆舌に尽くし難い人的犠牲もまた甚大なものであった。

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近代革命の社会力学(連載第323回)

2021-11-04 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(1)概観
 インドシナ三国同時革命とは、1975年という一か年内に、インドシナ半島を構成するカンボジア、(南)ベトナム、ラオスの三国において同時的に社会主義革命が成立し、大規模な体制変動が生じた事象を指している。
 過去の革命においては、1848年の第二次欧州連続革命(諸国民の春)のように、連環した広域において、同年度内に様々な志向性を持った革命の波が生じた事例はあるが、インドシナ三国同時革命は三国における革命が完全に連動した社会主義革命として一挙的に生じた点で際立っており、まさに同時革命であった。
 その点、アメリカは、特定の一国で「共産主義革命」―アメリカがそうみなす事象―を許すと、その効果が周辺諸国にもドミノ倒しのように波及し、周辺地域全体が「共産化」される危険があるとする「ドミノ革命」理論を、親米国での革命に対して軍事干渉を試みる際の正当化として援用してきたが、インドシナ三国同時革命はまさに「ドミノ革命」の例証とも言える事象であった。
 ただし、このような事象は近代革命の歴史上も稀有であり、インドシナ革命以外に類例を認めない。同時革命が成立するには、複数の国において、相互に密接に連携した勢力が協働して同時的に革命過程を主導しなければならないところ、国情も社会情勢も異なる複数諸国間でそうした連携革命を実行するのは力学的にも至難である。
 インドシナ半島でそのような至難事が可能となったのは、1970年代前半に半島全体が連動した戦場となる第二次インドシナ戦争が勃発し、この拡大地域戦争またはそこに内包された三国それぞれの内戦の交戦当事者でもあった三国の社会主義勢力が勝利し、革命を成功させたからである。
 そうした同時革命の核心となったのはベトナムであり、第二次インドシナ戦争も、その端緒はベトナム独立革命/戦争(第一次インドシナ戦争)が終結した後、南北分断国家となったベトナムにおいて、親米・反共の南ベトナム体制に対する北ベトナム及び南ベトナム解放勢力による革命運動と、これを排撃しようとするアメリカ及び南ベトナムの間での戦争―ベトナム戦争―にあった。
 このように共通動因から生じた同時革命であるが、その後の経過は、社会主義体制が安定的に維持されていったベトナム・ラオスと、社会主義体制がある種の狂信化を来たして空前規模のジェノサイドを引き起こしたカンボジアとで大きく分かれていく。

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環境的偽善の宴

2021-11-03 | 時評

先月31日から、コロナ・パンデミックのため一年延期された国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)がグラスゴーで開催されている。

そもそも温暖化対策の緊急性が高調されるわりには、スポーツ大会並みに一年延期とは悠長であるが、その点はおいても、このような豪華な国際環境行事―それ自体、専用機・送迎車の使用、会議・レセプション等々で温室効果ガスを排出中―を何十回重ねても、本質的な成果は上がらない。それはまさに本質を避けているからである。

気候変動問題に関して定着している「産業革命前の気温」という比較規準の意味を省察する必要がある。「産業革命以前」ということは、言い換えれば「近代資本主義勃興以前」ということであるから、それ以後の温暖化の主因は、まさに近現代の資本主義経済活動にあることを示している。

その点、資本主義というものは「きょういくら儲かるか」が至上命題、地球の未来など悠長に憂慮していては、利潤競争に勝てない世界である。過去一年余りは新型ウイルスというエイリアンの侵入によって資本主義経済が大きく攪乱されたが、収束が見え始めれば、元の木阿弥である。

それどころか、パンデミックに最も直撃され、多くの生産活動が総停滞した昨年でさえ、温暖化は歯止められなかった。すなわち、国連の世界気象機関(WMO)によれば、2020年の世界の平均気温は、産業革命前の1850乃至1900年の平均に比べ約1.2度上昇して、約14.9度と過去最高水準で、とりわけ資本主義的経済成長著しいアジアにおいては、昨年一年間の平均気温は観測史上最高を記録した。

また、労働という面から見ても、地球環境への高負荷産業ほど集約的に多くの雇用を抱えている。そうした産業の斜陽化、ひいては失業につながる厳しい環境規制には、労組も反対であるから、環境関連では労使の利害が一致し、労使一体での反環境反動が展開されている。

そうした労働者の雇用不安にも一理以上あるわけで、となれば、資本主義と言わず、さらに遡り有史以来の貨幣経済―その到達点が現代資本主義経済―を廃して、貨幣収入(賃金)と暮らしの連動を絶たない限り、本質的な環境保全は不可能である。

よって、資本主義と言わず、貨幣経済をきっぱり断念し、環境保全を考慮した地球全域での計画経済を軸とする共産主義に移行しない限り、温暖化の進行―それだけにとどまらず、地球環境の総劣化―を本質的に食い止めることはできない。すなわち、貨幣経済の廃止を通じた地球共産化が本質的な地球環境保全への道である。

それを、地球環境劣化の元凶である資本主義にあくまでも固執しながら、技巧的な排出権取引を通じた「市場メカニズム」による気候変動枠組みなどをうんぬんするのは、偽善―環境的偽善―にほかならず、そうした術策を協議する華やかなCOP会議は偽善の宴である。

しかし、そうした環境的偽善は現状、COP会議で美辞麗句を披露し合う各国首脳のみならず、ほとんどの環境運動団体/活動家によっても共有されていると思われる。かれらも資本主義を無意識に受容しているか、少なくとも貨幣経済を疑ってはいないだろうからである。相当に「急進的」な団体/活動家らでさえ、地球環境保全を目的とした地球共産化という提起には懐疑的・否定的ではないだろうか。

資本代理人である首脳らには期待できないから、まずは環境運動団体/活動家たちがそろそろ本質的に覚醒するのを待つほかないが、残された時間は限られる。

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近代革命の社会力学(連載第322回)

2021-11-02 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(6)革命の中和化から収束へ
 1975年11月、軍内急進派によるクーデターを鎮圧するに際して指揮を執ったのはアントニオ・エアネシュ中佐であった。エアネシュは心理戦の専門家として、アジア、アフリカの各植民地に配属され、アフリカでの植民地戦争にも従事したが、やがて植民地政策に批判的となり、国軍運動に参加した。
 そうした点では、エアネシュも革命派の中堅将校の一人であったが、当初は地味な存在で、ゴンサルベシュ首相らが推進していた社会主義政策の中では、旧体制下のプロパガンダ機関と化していたポルトガル公共放送の理事会長職を短期間務めた程度である。
 その後も特に目立った活動はなかったが、軍内では中道派に属していたと見られ、前出のクーデターに際しては鎮圧の指揮を執り、これに成功したことで、一躍重要人物として注目されるようになる。
 このクーデター鎮圧とその結果としての急進派の排除は革命の急進化を歯止め、中和化する大きな転換点となった。すでに制憲議会では社会党が第一党として新憲法の制定作業をリードしており、その結果、革命二周年となる1976年4月25日に施行された新憲法は、全体として社会主義的な要素とフランスに類似した大統領共和制/議院内閣制を組み合わせた妥協の産物となった。
 多くの論争を呼んだ新憲法の社会主義的な要素としては、共和国の目標を「社会主義への移行の保証」としたうえ、国営企業では労働者委員会が役員会に代表者を送ることで経営を監督できる制度が創設されたほか、民間投資や企業活動を制約する条項も含まれていた。
 一方で、改めて公式の軍内組織として国軍運動が指導する革命評議会が大統領諮問機関として憲法上明記され、議会が制定した法に対する一種の審査権を持つ高等機関として機能することで、軍が引き続き大きな影響力を発揮できるなど、民主主義を制約する要素も残された。
 ともあれ、憲法施行と同日に実施された総選挙ではソアレシュの率いる社会党が引き続き第一党となるも、過半数は制せず、比較第一党として少数内閣を構成した。一方、同年6月の大統領選挙では、統合参謀総長に昇格していたエアネシュが社会党から共産党まで主要政党の総支持を得て当選した。
 こうして、「リスボンの春」は革命の中和化に尽力したエアネシュと穏健左派のソアレシュ首相のコンビによって、収束過程が進められることになった。特に軍出身のエアネシュは1986年まで2期10年を全うし、その間、1982年には革命評議会を廃止して軍の影響力を排除する改革を行った。
 他方、76年憲法の特色であった社会主義的条項はその多くが実際には適用されないまま、1980年代半ば以降に政権政党として台頭したリベラル保守政党・社会民主党の主導で行われた1989年の憲法改正によりほぼ廃止され、資本主義市場経済への適応化が進められた。
 このように、1974年ポルトガル革命は、中和化から10年以上の歳月をかけて漸進的に脱社会主義・ブルジョワ民主主義の方向へと舵が切られ、その線で安定的に収束したと言える。
 反面、排除された急進派は80年代に過激化し、4月25日人民軍のような武装組織を結成、元急進派指導者で軍に復帰していたカルヴァ―リョもこれに関与したとして再び投獄された。しかし、こうした急進派残党は革命収束過程のポルトガル社会において、もはや影響力を持ち得なかった。

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近代革命の社会力学(連載第321回)

2021-11-01 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(5)革命の急進化局面と自壊
 救国評議会体制で初代大統領に擁立されたスピノラ将軍の辞職は、革命の急進化に弾みをつけることになった。実際のところ、救国評議会は名目上の軍政機関であり、実権はすでに革命防衛部隊COPCONを率いるオテロ・デ・カルヴァーリョと、首相に就いていたヴァスコ・ゴンサルヴェシュら国軍運動指導者の手中にあった。
 単なる民主化にとどまらない社会主義革命を目指していた彼らは1974年末に長年の禁圧を解かれた共産党と連携しており、同党の指導者であったアルヴァロ・クニャル書記長も無任所相として入閣して、産業の国有化や農地改革などの革命的施策に乗り出していった。
 その下に実行された社会主義政策はソ連をモデルとした産業国有化と農業集団化という定番であり、とりわけ産業国有化は広範囲に断行されたが、長期的な成功の展望には乏しいもので、かえって革命前よりも経済的な後退をもたらした。
 こうした動きを懸念したスピノラ将軍は1975年3月に反革命クーデターに乗り出すが、これは自らが設置に関わったCOPCONによって鎮圧されるという皮肉な結果に終わり、スピノラはブラジルへ亡命した。彼は当地で反政府組織を結成してなおも反革命の機を窺ったが、成功しなかった。
 こうして保守派の反撃をかわした後、カルヴァーリョらは従来の救国評議会を革命評議会に改組し、よりいっそう明確に社会主義革命を推進する体制を構築した。一方で、革命一周年となる75年4月25日に実施された制憲議会選挙では穏健左派の社会党が第一党に躍進した。
 ポルトガル社会党は旧体制下の1973年、政権による弾圧を避けるため、当時の西ドイツで結党された反共左派政党で、その創立者マリオ・ソアレシュ書記長(元共産党員)は革命後、75年3月から8月までに植民地独立交渉担当の無任所相として入閣していたが、路線を異にする共産党との対立は深まった。
 そうした中、ついに1975年9月、対立の緩和を企図したゴメシュ大統領はゴンサルヴェシュ首相の罷免に踏み切った。この罷免は彼の支持勢力の怒りを誘発し、リスボンで大規模なデモが発生したのに続き、同年11月にはカルヴァーリョが主導する急進左派によるクーデターが発生した。
 このクーデターにはカルヴァーリョが率いるCOPCONや特殊部隊が関与していたが、全軍的な支持を得られず、軍内中道派の部隊によって鎮圧され、カルヴァーリョは投獄、COPCONは解体という結果に終わった。
 こうして、1975年は「リスボンの春」の革命プロセスにとって激動の年であったが、この年は共産党を媒介とする軍人主導の社会主義政権という特異な体制がもたらした革命の急進化局面が自壊した年でもあった。
 他方、革命の大きな動因であったアフリカ植民地問題に関しては前進があり、1975年度中にモザンビーク、アンゴラが完全独立を果たした。ただし、両国ともに、マルクス‐レーニン主義を標榜する勢力が独立後の政権を掌握したことで、西側や南アフリカ白人政権に支援された反共勢力との間で長い内戦に突入することになる。
 なお、アジアにおけるポルトガル植民地のうち、東ティモールでは1975年、独立交渉がまとまらない間に急進的独立派勢力が決起し、内戦となったため、交戦を避けるべくポルトガル軍は撤収した。しかし、その直後、領有権を主張するインドネシアが侵攻し、不法に併合したため、独立は2000年代まで持ち越された。

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