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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第18回)

2024-12-10 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第4章 計画化の基準原理

(3)環境バランス②:数理モデル
 持続可能的計画経済において優先的な基準原理となる「環境バランス」における「制御」を数理的に実施するためのモデルの考案が、持続可能的計画経済を機能させるための鍵となることを前回述べたが、こうした数理モデルは、生産・流通・消費活動に伴う環境負荷を算出する方法と土地及び水域に着目した自然生態系に対する環境負荷を算出する方法とに大別できる。
 前者はさらに、生産部門ごとの環境負荷を算出する方法と、生産物の消費過程における環境負荷を算出する方法に分けることができるが、具体的な経済計画の策定において基軸となるのは、生産部門ごとの環境負荷の算出である。
 生産部門ごとと言っても、総合的な経済計画の策定に当たっては、各部門ごとの個別計算ではなく、個別生産部門の相互連関を考慮に入れた総合的な環境負荷計算が必要となる。その点では、産業連関表の利用が不可欠である。
 産業連関表は、ソ連出身の経済学者ワシリー・レオンチェフがマルクスの再生産表式をヒントに、各産業部門ごとの生産・流通過程における投入・産出構造を数量化された行列形式で表した相関図であり、資本主義市場経済おいては経済構造の把握、生産波及効果の計算などに利用されている。
 この産業連関表自体は、むしろ持続可能的計画経済における第二の基準原理である「物財バランス」を確定するうえで活用され得るものであるが、「環境バランス」を確定するうえでも、この表式を土台にしつつ、各部門ごとの環境負荷量を産出することができる。
 その点、日本の国立環境研究所が1990年代から開発してきた「産業連関表による環境負荷単位データ」は、400ほどの産業部門に分けた産業連関表をベースとしながら、各部門の単位生産活動(百万円相当)に伴い発生するエネルギー消費量やCO2などの温室効果ガス排出量等の環境負荷量を算出するというもので、環境バランス計算の基礎となり得る有力なモデルである。 
 一方、生産物の消費過程における環境負荷を算出する方法は、縦割り型の産業連関表ベースでは包括化されてとらえにくい生産物の消費・流通過程における横断的な環境負荷を算出するうえで有益である。
 その具体的な方法はさまざまあり得るが、これも日本の富士通が提案する情報通信技術(ICT)を活用した環境負荷評価例として、①物の消費②人の移動③物の移動④オフィススペース⑤倉庫スペース⑥ICT・ネットワーク機器⑦ネットワークデータ通信の七つの環境影響要因に分けて、それぞれの環境負荷を算出する方法は一つの参考になるだろう。
 以上に対して、土地及び水域に着目した自然生態系に対する環境負荷を算出する方法は、人間が農業を含めた産業活動を継続するうえで不可欠な土地及び水域の利用を計画化するうえで必要とされるものである。
 この点に関しては、「ある特定の地域の経済活動、またはある特定の物質水準の生活を営む人々の消費活動を永続的に支えるために必要とされる生産可能な土地および水域面積の合計」と定義づけられた「エコロジカル・フットプリント(EF)」(生態足跡)が有力な手がかりとなり得る。
 EFは、如上の生産・流通・消費活動に伴う環境負荷を算出する方法と有機的に組み合わせる形で、EFが各土地及び水域ごとの生物学的生産量の限界内に収まるように計画化する際の指標数値となる。
 ちなみに、具体例として掲記した既存の算出モデルは、いずれも資本主義市場経済下での環境分析法として考案されたものであるから、現時点で、それらは資本主義市場経済を前提とした環境収支の分析用具にとどまっており、これらを計画経済に適用するに当たっては、さらなる応用が必要となるが、その詳細は第2部に回す。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第17回)

2024-12-09 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第4章 計画化の基準原理

(2)環境バランス①:「緩和」vs「制御」
 持続可能的経済計画の策定に当たっては、環境バランスが物財バランスに優先する基準原理となる。環境バランスとは、厳密には、地球の自然生態系の均衡的な維持に係る生態学的なバランス(ecological balance)を意味している。
 その意味では、「生態バランス」と明確に規定したほうがふさわしいかもしれないが、必ずしも広く支持されている用語ではないので、ここではより広範に地球環境の健全なバランスという意味で「環境バランス」としておく。
 このような意味での環境バランスの原理として最も初歩的なものは、生態系への負荷を可及的軽減する「緩和」(mitigation)である。これは、経済開発をするに当たり、開発そのものを統制するのではなく、開発により発生する環境負荷を段階的に軽減することを目指すものである。
 その段階として、回避→最小化→矯正→軽減→代償の順を追っていくが、はじめの「回避」はある開発行為をそもそも回避するというゼロ回答であるからほぼ採用されず、二番目の「最小化」も、ある開発行為の程度や規模を最小限に抑制することを意味するから、採用されにくい。
 三番目の「矯正」は、開発行為によって損傷された生態系を修復することが可能な限りでは機能するが、その修復に多額のコストを要する場合には却下され、結局は四番目の「軽減」に落ち着くように仕組まれている。実際のところは、「軽減」でさえも開発の妨げとなるので、逃げ道として用意された五番目の「代償」(金銭的補償を含む)で処理されることも多い。
 このような発想は、「開発と環境の両立」スローガンに象徴されるような資本主義枠内での「環境保護」という緩やかな環境政策には適合的である。実際、この考え方が、沿革的には資本主義総本山のアメリカ合衆国で発祥したという事実にもうなずけるものがある。もっとも、計画経済にあっても、開発に重点を置く開発経済計画のスキームならば採用することのできるものである。
 しかし、生態学的持続可能性の保障に重点を置く持続可能的計画経済の原理としてみると、「緩和」原理はまさしく緩やかすぎて、基準原理としては不十分である。むしろ、「制御」(controlling)という考え方を導入する必要がある。
 「制御」とは、「緩和」にとどまらず、より積極的に生態系の均衡維持のために生産活動を量的にも質的にもコントロールする基準原理である。先の「緩和」原理の五段階に照らすなら、回避→最小化→矯正の三段階を計画的に実施する一方、軽減や代償という中和化された段階は排除されることになる。
 このような「制御」原理は一つの大枠であって、これを計画経済に適用するためには、生産活動による環境負荷を客観的に計量するための収支計算を可能とする精密な数理モデルを考案し、適用する必要がある。これが次なる課題である。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第16回)

2024-12-08 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理


第4章 計画化の基準原理

(1)総説  
 本章では、持続可能的計画経済に基づく具体的な計画化を実施するに当たっての基準となる諸原理について、見ていくことにする。この計画化の基準原理とは、個々の経済計画を策定するうえで適用される経済技術の基礎となるべきものである。
 その点、前章(5)で取り上げた三つの計画経済モデルに再度立ち返ってみると、最初の均衡計画経済モデルにあっては、需要と供給の均衡ということが計画化における最大の基準原理となる。ある意味では、計画経済論の出発点である。
 資本主義市場経済では、需要と供給の関係は市場におけるランダムで気まぐれな当事者間の取引に委ねられるから、恒常的に不安定である一方、意図的な価格操作のような策略によって市場が操縦される危険も常につきまとう。そのため、経済運営は本質的に不安定で、需給バランスの崩れから恐慌や不況のような事象は避けられない。
 そうした欠陥にかんがみ、計画経済では、需給関係を適切に調節するべく、事前の計画化がなされる。ここで基準原理となるのは、「物財バランス」という概念である。物財バランスとは、各計画年次において、生産目標として設定される生産量(価値量)とそれに必要な投入量とを均衡させることをいい、まさに計画経済における需給調節の中核となる概念である。
 このようなバランス調整原理は、実際のところ、資本主義経済における個別企業の生産計画においても適用されているものであるが、計画経済にあっては、経済計画が施行される領域全体において適用する点に違いがあると言える。
 ちなみに、第二の開発計画経済モデルにおいては、物財バランス原理を基層原理としながら、毎次経済計画を通じた経済発展の度合を計る「発展テンポ」が付加的な基準原理として設定されていた。これは、低開発状態から出発し、資本主義に追いつき追い越すことを至上命題とした旧ソ連型の計画経済モデルに特有の基準原理であるが、いつしか物財バランスよりも、拡大再生産が優先原理と化していった。
 これに対して、ここでの主題である持続可能性計画経済が前提とする第三の環境計画経済モデルにあっては、「環境バランス」が付加される。これは、地球環境の負荷許容量に応じて、物財バランスを調節する原理であり、まさに生態学的な持続可能性を保証する中核原理となるものである。
 その意味では、この原理は単なる「付加」原理にとどまらず、上述の物財バランスに優先されるべき根本原理と言っても過言ではない。反面、環境バランスを押しやりかねない発展テンポのような原理は、環境計画経済モデルにあっては、もはや適用されない。
 ところで、物財バランスにせよ、環境バランスにせよ、それらの原理の厳密な適用に当たっては、数理モデルの構築が不可欠である。中でも、線形計画法の応用である。その点、今日におけるスーパーコンピュータ、さらに人工知能の発達は、そうした計画化数理モデルの構築にとっては追い風となる状況と言えるだろう。
 一方、需給調節に関わる物財バランスの適用に当たっては、人間不在の机上計画に陥る可能性もある数理モデルのみならず、具体的な生身の人間の経済的な意思決定のあり方を合理的に予測するための行動科学原理の導入も必定である。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第15回)

2024-12-06 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第1章 環境と経済の関係性

(7)非貨幣経済の経済理論  
 伝統的な経済理論は、市場理論であろうと、計画理論であろうと、みな貨幣経済を前提として構想されてきた。これは、貨幣という交換手段の発明以来、人間の経済活動が貨幣を軸に展開されるようになってきたことからして、必然的なことであった。  
 一方で、非貨幣経済は、貨幣経済が普及していない「未開」の民族の慣習を研究する人類学(経済人類学)の課題とされてきた。そうした古来の慣習は興味深いものではあっても、「文明」社会に持ち込めるものではない。  
 その結果、歴史上旧ソ連で本格的に開始された計画経済においても、貨幣経済を維持することを前提とする経済計画が追求された。そこでは、物やサービスを貨幣と交換するという商品形態が少なくとも消費財に関しては維持され、経済計画の主体となる国家がその財源を重点分野に投資するという貨幣による財政運営も従来どおりであった。
 そうした点では資本主義と大差ないが、異なっていたのは自由市場を公式には認めず―闇市場は違法ながら、潜在していた―、あらゆる物資を経済計画に従い、公定価格でコントロールしようとしたことである。
 しかし、貨幣という手段は元来、自由な物々交換取引の中から交換を簡便・敏速・大量的に反復・継続するために「発明」されたものであるから、本質的に自由市場を前提とする交換媒体である。それを計画経済にも当てはめようとすることには、ほぼ「物理的な」と形容してよい無理があった。  
 また、過去幾多の革命が目指した財産の均等(均産)という究極命題も、貨幣経済を維持する限り、夢想に終わるだろう。常に自己に有利な取引を成立させ、利益を得ようと奮戦する経済主体の競争場である自由市場から生まれた貨幣を社会の全成員に均等に分配するということは、不可能事だからである。  
 実のところ、計画経済とは本来、貨幣交換を前提としない経済システムである。貨幣交換に基づく市場を持たないからこそ、生産・流通を規整する全体計画を必要とするのだと言ってもよい。その意味で、計画経済の理論は必然的に非貨幣経済の経済理論となる。  
 とりわけ、経済を環境内部化することを目指す「生態学上持続可能的計画経済(持続可能的計画経済)」は、貨幣経済には馴染まないだろう。というのも、そこでの計画の大枠を規定する環境規準はその性質上、貨幣価値に換算することができないからである。  
 そうすると、ここからは従来の経済理論にとってほとんど未知の領域となる。しかし、真の計画経済理論を確立するためには、従来の経済理論の前提を大転換し、非貨幣経済の経済理論を構築し直さなければならない。  
 そこでは、例えば、生産総量を貨幣価値に換算して計測するGDP(国内総生産)や、GDPの上昇率を指標とする「経済成長」のような概念は廃棄される。それに代わって、生産総量は現実の生産物量をもって計測され、「経済成長」ではなく、現実の生活者の視点に立った「生活の質」が重視されるだろう。
 もっとも、生産物量の上昇率をもって「経済成長」の新たな指標とすることは理論上可能だが、厳正な環境規準に導かれる計画経済において、その絶え間ない上昇を是とする「経済成長」は経済が環境を突き破る恐れのある危険な概念となる。
 それに代わり、現実の生活者の栄養状態や健康状態、平均寿命や子どもの死亡率、居住環境、労働・余暇時間などの諸指標により総合評価された「生活の質」の向上がドメスティックな経済状態の重要な判断基準とされるのである。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第14回)

2024-12-05 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第3章 環境と経済の関係性

(6)環境と経済の弁証法  
 環境と経済の対立矛盾関係を解消しようとする場合の視点として、伝統的な環境経済理論は「環境と経済の両立」という予定調和論を掲げてきた。このような標語はわかりやすく、無難でもあるので、大いに膾炙しているが、その実は空理である。  
 それが空理となるのは、そもそも自然環境に働きかけ、時にそれを破壊してでも推進される産業革命以来の近代的な経済活動は、自然環境と常に対立緊張関係に立たざるを得ないからである。  
 環境と経済の対立という問題に関して、古典派経済学の枠組みでは、環境を経済の外部条件とみなし、環境破壊を外部不経済事象としてとらえてきた。そのうえで、排出権取引や環境税(炭素税)といった政策技術により外部不経済を内部化して経済と環境の対立関係を緩和しようとする。
 このような方向性は、外部不経済を過小評価して経済活動の優位性をあくまでも護持しようとする経済至上的な理論に比べれば、経済と環境の対立関係を弁証法的に止揚しようとする良心的な試みと言える。しかし、自然法則に支配される環境という外部条件を完全に内部経済化することは不可能であり、それは常に不完全な内部化にとどまらざるを得ず、弁証法としても部分的なものにとどまる。  
 そもそも経済と環境を内部/外部という関係性で切り分ける前提を転換して、人間の経済活動も環境という大条件の内部において実行される営為の一つにすぎないと想定してみよう。ただ、そう想定したところで、環境と経済の対立関係が自動的に解消されるわけではない。  
 人間の欲望に動機付けられた経済活動は、容易に環境条件を突き破って外出してしまう。産業革命以来の環境破壊は、そうした「経済の環境外部化現象」と解釈することができるであろう。そのような状況を打開するためには、経済を環境の内部にとどめておく必要がある。  
 その点、産業革命以前の経済活動は、生産技術がいまだ人力に依存した非効率で未発達なものであったため、必然的に経済活動は環境条件の内部にとどまっていられたが、産業革命以降は拡大的な技術発展のおかげで生産力の飛躍的な増大が継起したことにより、経済は環境を超え出るようになった。  
 そうした経済の環境外部化を解消する方法として、生産技術を産業革命以前の発達段階に揺り戻すという逆行が可能でも適切でもないとすれば、環境計画経済の導入によるしかないであろう。環境計画経済、わけても「生態学上持続可能的計画経済(持続可能的計画経済)」は、経済活動を量的にも質的にも環境規準の枠内にとどめるための技法という性格を持つ。  
 そこにおける環境と経済とは完全な弁証法的関係に立つが、その完全性を担保するものが厳正な環境規準に導かれた経済計画である。逆に言えば、経済計画を介して環境と経済の対立関係は完全に止揚され、解消されることになるのである。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第13回)

2024-12-04 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第3章 環境と経済の関係性

(5)環境計画経済モデル  
 古典派環境経済学理論の限界を超克するためには、古典派環境経済学が前提する市場経済への固執を離れて、計画経済へと転換しなければならないが、計画経済といっても、三つの計画経済モデルを区別する必要がある。すなわち、均衡計画経済・開発計画経済・環境計画経済である。  
 初めの均衡計画経済モデルは、資本主義経済(広くは市場経済)がもたらす景気循環の不安定さと、物資分配の不平等さ、結果として生じる富の偏在という構造的な歪みを正すことを目指して、社会全体の需給計画に沿って経済活動を展開するモデルであり、計画経済の最も基本的な形態でもある。  
 このようなモデルはすべての計画経済モデルの基層にあるものであるが、その上に生産力の増大という目的を付加したモデルが、開発計画経済モデルである。これは、資本主義に対抗する形で、精緻な経済開発計画に基づき、生産力の増大を企図するもので、旧ソ連が一貫して追求していたモデルでもある。  
 開発計画経済モデルが生産力の増大を目指す点では、資本主義市場経済モデルと同様の方向性を持ち、言わばそのライバルとなるモデルであったが、周知のとおり、旧ソ連及び追随した同盟諸国では100年間持続することなく、挫折した。  
 このモデルは、いつしかその基層にある均衡計画経済モデルを忘れ、資本主義体制との競争的な経済開発にとりつかれた結果、資本主義に勝るとも劣らぬ環境破壊をもたらした末に、生産力の増大という究極目標においても、敗北したのである。  
 今、生態学的な持続可能性を保障するための計画経済モデルとして新たに構築されるべきものは、そのような持続可能性を喪失した開発計画経済モデルではなく、環境計画経済モデルである。ここで、用語の分節を行なうと、環境計画経済とは「環境‐計画経済」であって、「環境計画‐経済」ではない。  
 この区別は言葉遊びのように見えて、大きな実質的相違を示している。この件については次節で改めて述べるが、形式的な分節としては、「環境‐計画経済」とは、環境という要素と結合し、環境保護を究極的な目的とする計画経済モデルの謂いであって、環境保護の計画を外部的に伴った経済ではないということである。  
 後者の「環境計画‐経済」であれば、例えば国際連合にはまさに「国際連合環境計画(United Nations Environment Programme)」という国際機関が存在するごとく、環境保護のためのプログラムを外部的に取り込んだ経済体制全般を指すから、環境保護プログラムを伴う市場経済というものもあり得ることになる。  
 実際、種々の環境対策を取り込んできている現行の市場経済体制は、そうした「環境計画‐経済」を指向しているとも言えるのであるが、それでは生態学的持続可能性を真に保障することはできないのである。  
 そこで、「環境‐計画経済」モデルの出番となるわけだが、これは基層に冒頭で見た均衡計画経済モデルを置きながらも、旧ソ連におけるような開発計画経済モデルとは袂を分かち、経済開発よりも環境保全に目的を定めたモデルとなる。  
 さらに仔細に見れば、個々の環境保全策を経済計画の中に反映させる「環境保全的計画経済」にとどまることなく、生態学的な観点に立って環境規準を全体的に適用するのが当連載のタイトルでもある「生態学上持続可能的計画経済(略して「持続可能的計画経済」)」ということになる。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第12回)

2024-12-03 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

 

第3章 環境と経済の関係性

(4)古典派環境経済学の限界  
 環境予測という観点は、近年、古典派経済学においてもこれを無視することは退行的とみなされかねず、いくらかなりとも前進的な古典派経済学ならば、環境予測を取り込んだ経済学理論―古典派環境経済学―に赴かざるを得ない。  
 そうした古典派環境経済学理論の最大の特徴は、市場経済を自明のものとすることである。従って、例えば気候変動の主要因とみなされる二酸化炭素の規制対策にしても、排出権取引のようなランダムな市場原理に委ねようとする。  
 しかし、近年の環境予測では地球の平均気温の具体的な数値目標を示して対策を求めるようになっている。例えば、目下最新の気候変動枠組み条約であるパリ協定では、産業革命前と比べた世界の平均気温上昇を「2度未満」に抑えるとともに、平均気温上昇「1.5度以内」を目指すべきものとされる。
 排出権取引はあたかも需給調節を市場のランダムな取引に委ねる市場経済手法の環境版と言える構想であるが、このような無計画な方法では具体的な数値目標の達成は不可能であり、排出権という新商品を作り出すだけである。  
 古典派環境経済学の中でも、もう一歩進んだ理論にあっては、環境税のような間接的な生産規制の導入に踏む込もうとする。しかし、資本主義を前提とする限りは、資本企業の利潤を著しく低下させるような高税率を課すことはあり得ず、多くの資本企業は微温的な環境税を負担してでも、従来の生産体制を維持するだろう。
 その点、2006年に英国の経済学者ニコラス・スターンが英国政府の諮問に答えて提出した「スターン報告」は、環境予測モデルに基づき、エネルギー体系・技術全般の変革を提唱するもので、古典派環境経済学理論としては踏み込んだ内容となっている。
 その踏み込んだ内容ゆえに、政府答申を超えて国際的な指導文書としての影響力を持つ。同時に、環境経済学分野から初めてノーベル経済学賞(2018年度)を受賞したウィリアム・ノードハウスをはじめ、伝統的な環境経済学者からは多くの批判が向けられているが、ここでの問題関心からすれば、「スターン報告」は古典派の枠組みゆえに、少なくとも三つの限界を持つ。  
 まずは、大枠として、気候変動問題に関する政府諮問への答申という性格上やむを得ないことではあるが、環境問題の主題が気候変動に限局され、気候変動問題に還元できない生物多様性や有害産業廃棄物などの諸問題には及んでいないことである。
 その気候変動対策としても、導出される対策がエネルギー体系・技術の変革に限局され、生産の量的・質的管理には踏み込まないことである。これは計画経済を論外とする市場経済ベースの古典派経済学である限り、必然的な帰結である。  
 さらに、それが手法とする費用‐便益効果論の限界である。本質的に資本主義の利潤計算技法である費用‐便益効果では当然ながら、利潤を低下させる高コストな対策は排除されてしまう。また、それは環境倫理よりも経済計算、特に資本主義における最重要のマクロ経済指標であるGDPへの影響を優先する論理である。  
 古典派としてはかなり前進的な内容の「スターン報告」ですら、こうした限界を抱えるのは、まさに古典派環境経済学そのものの限界性の現れにほかならない。資本主義市場経済を前提とする限り、経済と環境を交差的に結合することはできない。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第11回)

2024-12-02 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理


第3章 環境と経済の関係性

(3)環境倫理の役割  
 持続可能的計画経済の土台には科学的な環境予測があるとはいえ、実際のところ、地球規模でますます強固に定着しているかに見える市場経済を計画経済に大転換するに当たっては、純粋な科学だけでは律し切れない原理的な推進要素がある。それがすなわち環境倫理である。  環境倫理に関して確定的な定義はないが、例えば「あらゆる行動において当事者が環境との関係の中でどのような価値判断を下し、行動選択をするかという倫理的な問題をいう。」などと定義されている(一般財団法人・環境イノベーション情報機構の環境用語集)。  
 環境倫理の具体的な内容として何を盛り込むかについても定説はないが、ほぼ共通しているのは、地球環境の保全に関して現存世代は未来世代に対して責任を負うという「世代間倫理」の原則である。この原則は、市場経済を前提とした環境保全論においても、一般論としては受け入れられている。  
 しかし、市場経済を前提とする限り、このような倫理原則も、まさに一般論に終始せざるを得ない。なぜなら、市場経済は「今、ここでどれだけの利益を上げられるか」ということを至上命題とするからである。このことは、証券市場や為替市場における瞬時的取引に象徴されているが、一般産業界における商取引においても本質は同じである。
 徹底して現在という時間軸にこだわるのが市場経済であり、それが市場経済のイデオロギー的枠組みである資本主義の「論理」である。このような「論理」を放棄しない限り、世代間倫理は題目として終わるだろう。実のところ、気候変動論のアンチテーゼである懐疑論の出所も、科学的な反論以上に、こうした環境倫理への反発・否認にあると看破できるのである。  しかし、持続可能的計画経済にあっては、科学的な土台としての環境予測に対して、世代間倫理が倫理的な基底として据えられることになる。世代間倫理を題目に終わらせず、真に実践するためには、計画経済への地球規模での大転換を必要とする。  
 とはいえ、あらゆるものに終わりがあるとするならば―逆言すれば、永遠に続くものはないとすれば―、地球という惑星そのものがいつか終焉する日が到来するだろう。それならば、いっそのこと、今のうち地球環境を利用できるだけ利用しようという刹那的な発想―これを「環境的饗宴論」と名づける―もあり得る。  
 現在という時間軸を最優先する資本主義は、こうした環境的饗宴論とも親和性が強い。特に天然資源の採掘に関して、その有限性を否認し、または限界点を意識的に長期に見積もり、高価値な天然資源の開発を急ごうとする施策は、環境的饗宴論の代表例である。  
 しかし、世代間倫理を重視する限り、自然的な要因から地球環境あるいは地球そのものが死滅することは避けられないとしても、少なくとも地球を人為的な要因から死滅させることのないようにすべきだということになる。持続可能的計画経済は、そのための最も根本的な地球環境保全策であると言える。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第10回)

2024-12-01 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第1部 持続可能的計画経済の諸原理


第3章 環境と経済の関係性

(2)科学と予測  
 持続可能的計画経済の最も基礎的な土台を成すのは、あれこれの経済理論以前に、科学に基づく環境予測である。なぜなら、持続可能的計画経済は将来起こり得る地球の環境悪化、地球の環境的な死滅を本質的に食い止めるための経済構造的な施策だからである。  
 その点で問題となるのが、果たして科学は予測という営為に耐え得るかどうかである。科学は分析的な知的営為の蓄積で成り立っているところ、分析とは通常、すでに発生している何らかの事象の要因や発生機序などを解析し、解明する営為であり、将来発生し得る事象を予測することは必ずしも本意でない。  
 このことは、例えば、地震のような災害の予知という試みが献身的に行なわれながら、的確な予知の方法論が未だに確立されていないことに現れている。災害予知に対する悲観論も根強い。発生した災害の分析はできるが、発生し得る災害を精確に予知することは無理ではないかということである。  
 たしかに、具体的な災害の発生を精確に「予知」することは至難の業であろうが、災害はある日突然に発生するというものではなく、自然の長期的な変動のプロセスを経て、ある時点で災害という形で発現するのであるから、そうした災害に結びつく自然の変動を認知し、長期的な「予測」をすることは可能であろう。  
 これをまとめれば、科学的予知は至難だが、科学的予測は可能ということになる。持続可能的計画経済が土台とするのは、そうした科学的予測としての環境予測である。実際、科学的な環境予測は現在喫緊の問題となっている気候変動をめぐって近年盛んに行なわれている。  
 しかし、こうした気候変動予測は、しばしば懐疑論者による拒絶にあっている。しかも、懐疑論者またはその影響下にある政治家が台頭して、気候変動予測に基づく環境施策を否定したり、緩和したりすることもしばしばである。  
 およそ科学的予測の宿命として、絶対確実な結論を導くことは困難である。この点は、既発生の事象を解析する場合との相違であり、未発生の事象を予測することは、その性質上、修正の可能性を内包した確率論にならざるを得ない。そのため、懐疑論の出現を排除することはできない。  
 そこで、科学的環境予測は、懐疑論の存在を意識しつつ、修正可能性にも開かれた形で、長期予測と短期予測とを区別し、長期予測は一つの可能性の提示にとどめ、確率の高い短期予測を軸に構築するべきであろう。
 そのため、科学的環境予測を個別具体的な経済計画の基礎とするに当たっても、短期予測をベースとした比較的短期の経済計画(3か年計画)に反映させることになるのである。それに対して、長期予測は次期以降の計画の方向性を見通す参照資料となる。

 

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