サウジで行方不明となった反体制派の記者について総領事館の中で殴り合いの末に死亡したと説明がサウジ政府からあった。トルコ政府は一様に「世界は信じていない」と報じた。トルコのエルドアン大統領は「サウジはこの事件を簡単に片付けることはできない」とサウジ政府の事件関与を徹底追及する考えを示した。
20日サウジ政府は「カショギ氏は館内で口論となり、殴り合いの結果、死亡した」と認めた上でサウジアラビア人18人を拘束したと発表。実行犯が含まれているかもわかっていない。ムハンマド皇太子の側近であった情報機関の副長官が5人更迭された。ムハンマド皇太子については、事件とは一切関係なかったとして、今後、皇太子主導で情報機関の再編を行うとした。
ムハンマド皇太子を守りたいとするサウジ側の思惑が透けて見えた。事件が大きくなって対応を権力者が対策を図る。どこにでも類似の事件が見え隠れする。森友、加計問題の日本、トランプのロシア疑惑、プーチンのトランプ擁護発言。疑惑はあっても明らかとならない事はあるのだ。疑問があるから、信じられない現象があって様々な解析と研究が為される。
世の中、それで成り立っている。ノーベル賞もフーイルズ賞も疑念から得られた成果を表彰したものだ。
マスコミもメデイアも自身の問題については深読みと分析に真摯に向き合わない。経営上、守秘義務と知る権利の間で経営者、主筆との論争に決着がつかないから。事実は明らかとならないことがある。墓場に持ってゆく。知られない方が良いとする当事者が存在すること。
当人にとっては明らかになれば自分の名誉が傷つく。人類の為にならない。そう思っているかもしれない。裁判官も人の子。生きる為に命を食する罪人。生涯にどれだけ生ある生き物の命を食して来たか。
全ての人類は罪人である。聖職者だけが罪がないとも思えない。「知る権利」と「守秘義務」他の要素もあるのだ。
「事実はわからぬ方が良い。」世の為、人の為、人類の為、そう思う権力者は確実に存在する。あの世に秘密として持ちかえる事に執着し、本意としている。事実は明らかとなることはないのだ。