踊る小児科医のblog

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高木仁三郎氏、中西環境リスク論を批判 『座談会 奪われし未来を取り戻すために』より

2016年03月14日 | 東日本大震災・原発事故
高木仁三郎: 中西さんの環境リスク論をめぐる議論の中では、いくつかの問題がごっちゃになっていると思うんですよ。最初に言っておきますが、定量化できるリスクを定量化して、ものごとを相対化して議論するというリスク論の立場自体は、否定すべきことではないし、ぼくも賛成です。

 しかし、一つの問題は、ある物のリスクとベネフィットを考える場合、それが代替できるかどうかがまず考えられるべきだということです。不可欠な物で代替できないとしたら、改善してリスクを小さくするしかないわけですけど、いくらでも代替品で置きかえられるもの、あるいは使っても使わなくてもいいものについては、なくしてしまっていい。いくらでも置きかえられるのになんで固執するのか、彼女の議論からそういう印象を受ける、というのが一つの問題です。

 それと関連しますが、今求められているのは、もっと大きな産業構造や生活のあり方の転換だと思うんですよ。このままでは地球全体がやばいという感じがみんなの中にあって、未来を取り戻すために二十世紀までに築かれた文明のあり方を変えようという模索がはじまっている。その時には、何がベネフィットかということ自体が変わってくる。既存の価値観でベネフィットを言うと、どうしても保守的な議論になる。

(1999年8月収録、2000年刊『“奪われし未来”を取り戻せ』収載、高木仁三郎著作集9「市民科学者として生きる III」より引用)
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# 3.11が過ぎると原発事故関連の報道も減ってくるが、あらためて高木先生の著作を本棚から取り出してパラパラとめくっていて目に付いた発言を抜き出してみた。(高木氏の著作で勉強したなどと偉そうに書いてきたが、実はごく一部しか読んでいなかった…ちゃんと系統だてて読み直してみたいのだが)

# 中西準子とか環境リスク学などという名前自体、震災後に初めて知り、2011年末に『環境リスク学 不安の海の羅針盤』を図書館で借りて読んでブログに批判論を書いた。2014年の『原発事故と放射線のリスク学』は購入して熟読したが、正面から取り組んで批判するだけの時間も余裕もなくそのままとなっていた(無論、この書における中西氏の考え方と作業と結論に対しては批判的です)。

# ここで引用した高木氏ら3人の座談会では、タイトルで示されているように、ダイオキシンなどの化学物質が議論の主な対象となっているが、同書の『巨大事故をどうするか』の中では、「ペロウの評価」を紹介しながら、巨大事故の危険性という観点から、原発を含めてどのような技術システムの選択をするかという問題を取り上げている。

# ペロウの評価については後日もう少し説明する予定だが、最初に引用した高木氏の発言や、この「ペロウの評価」という考え方が、原発推進派や一般の方、メディア、ネトウヨなどの議論ですっぽりと抜け落ちている。この対談のあった1999年から17年経っても、議論のレベルは一歩も進んでいないというのが実感である。
(原発事故で誰も死んでないとか、自動車や飛行機の事故の方が問題だとか、こんにゃくゼリーより餅の方が危険だとかいう、二次元三次元の問題を、恣意的に一次元<単純な数の比較>に落とし込んで来る暴論=詭弁)

# この考え方は、私が他の問題(医療事故やワクチンなども含む)でも全く同じように考えていたことであり、今更ながら高木先生がきっちり述べていてくれたことを確認できたわけだが、逆に、私の考え方なるものが高木氏の強い影響で構築されてきたものだから当然と言えるのかもしれない。

# 高木氏の発言でもう一つ重要なのは、三段目の「価値観の転換によって何がベネフィットかも変わってくる」という部分だと思う。日本のエスタブリッシュメントは、チェルノブイリでも、東海村JCO臨界事故でも、中越沖地震の原発事故でも価値観の転換を起こすことができず、破局的な福島原発事故を起こすに至った。

# いくら何でもこれで過去の「考え方・生き方」の過ちを認め、社会のあり方が変わらざるを得ないだろうと考えたのだが(おそらく多くの国民も同じように感じたはず)、5年経ってわかったことは、その過ちを認めないために、更に既存の価値観のまま「最後まで」突っ走ろうとしているということだと思う。

# ここでいう価値観の転換について見解の違いはあろうかと思うが、単に原発推進か反対かという議論ではなく、例えば、毎年GDPが増加して経済成長が続きエネルギー消費も増加する社会を続けることが幸福につながるという価値観から、経済成長は止まっても生活の質や余暇の時間が向上し、自然・環境・文化などが保たれ、社会の公正さを感じることができ、老後の不安の少ない社会を目指すという価値観への転換だとすると、おそらくほとんどの国民はすでに当然のことと受け止めるはず。