熊本熊的日常

日常生活についての雑記

手作り

2009年10月02日 | Weblog
夜8時過ぎ、職場でひとり仕事をしていると、帰ったはずの同僚がひとり戻ってきた。自分の席でごそごそしているようなので、忘れ物でも取りに来たのかと思っていたら、声をかけられた。

「熊本さん、パウンドケーキ召し上がります?」

料理教室で作ってきたのだという。オーブンから出してそれほど時間が経っていないとかで、まだ温い。色形よく、味も上品でたいへんおいしかった。

一昨日は別の同僚から手作りのクッキーをいただいた。職場が移動(異動ではない)するので、挨拶代わりに焼いてきたというのである。トッピングのアーモンドスライスがふんだんに使われていて、手作りならではの暖かみのあるおいしさだった。

世に行列のできる店だの、評判のお取り寄せだの、市販の商品は数多いが、そんなもので実際に特別においしいと思えるものは殆ど無い。もちろん、そうしたもののそもそもの原形はたいへんおいしく、だからこそたくさん作って売り出そうという発想が出てきたのだろう。食べるものに限らず、ひとつふたつ作るのと、その同じものを100や200作るのとでは、どれほど工夫を重ねたところで同じものにはならない、と思う。今、目の前にいる人とすぐに食べるために作るのに、保存のことなど考えないだろう。不特定多数の人に買ってもらうためにあちこちの店に卸すとなれば、味もさることながら保存を第一に考えなければならない。健康被害などを発生させてしまえば、それで全てが終わってしまう。当然に、プロトタイプと量産品とでは似て非なるものということになる。自分の生活圏のなかにある人と食べるものを作るのと、商品としての料理を作るのとでは、同じ行為が全く違った内実を持つのである。繰り返しになるが、これは料理に限ったことではない。

微妙な違いが決定的に違う結果をもたらすのはよくあることだ。それが不幸なことである場合もあるだろうし、セレンディピティとなることもある。しかし、ひとつひとつ自分で作ればそもそも意図に反する妥協は不要で、結果に不満があったとしても、それは自己責任だと素直に割り切ることができるので、次への意欲になりこそすれ、不愉快なことなど何も無い。

既に何度かこのブログにも書いたかもしれないが、数年前から自分のなかのテーマとして、自分で生きてみる、ということを考えている。習慣に流されるのではなく、自分で考えたことを与えられた状況のなかで工夫しながら実現しようと試みる、ということである。ささやかなことではあるが、そうした自分のなかの流れのなかで、その流れに沿ったことと期せずして出会うと、なんだか妙に嬉しいものである。

ところで、パウンドケーキをくれた同僚は、その後、友人と遊びにでかけるとかで、余計な荷物を自分の席に置きに戻ってきたとのことである。