熊本熊的日常

日常生活についての雑記

as it is

2009年10月25日 | Weblog
たいへん不便な場所にある上に、展示されているものが万人受けするものではないので、一緒に行く相手を選ぶのに少しばかり難儀する。もちろん、都内やその近隣の場所を訪れるようにひとりで出かけるのもよいのだが、ちょっと変わった場所なので、連れがどのような反応をするのかも楽しんでみたいと思うのである。

都心から車で2時間弱、訪れた先には農家の納屋のような建物があり、その内部は退去した後の物置小屋のような風情が漂っている。もちろん、展示にはそれ相応に展示位置や展示方法を工夫してあるのだが、それを感じてしみじみと眺めるような人はそれほどいないのではないかと思う。かといって、この近くで他に立ち寄って面白そうな場所もなければ、おいしいものにありつける飲食店もない。ここを訪れるためだけに往復4時間近くをかける。それだけで「じゃぁ」と別れることができるほど親しい相手ならよいのだが、そこまで親しくなければ、誘った手前、なんのかんのと愉しんでもらえるようなオプションを考えなければならない。

つまり、誘った自分のほうも結構気を遣う場所なのである。誘われたほうにしても、一応の礼儀として楽しげなふりはしてくれる。しかし、本当にそうなのかどうかは立ち居振る舞いに自然に表れる。つくづく意思疎通というのは言葉だけでは尽くせないものだと思う。

ひとりひとりの思考や趣味が千差万別であるのは当然として、その異質なものどうしが時に絶妙な調和を見せることも稀にはある。そのような相手が良き仲間と認識されるのだろう。それは長く続く友人関係であるかもしれないし、夫婦関係であるかもしれないし、仕事仲間であるかもしれない。他の人のことは知らないが、少なくとも自分に関する限り、長年生活圏を共にしている関係というのは皆無である。例えば年賀状のやり取りが何十年も続いているとか、少なくとも関係が断絶していないというような相手は何人もいるが、それは「知人」であって「友人」とか「仲間」とは呼ばないだろう。人間は関係の上に成り立つものであり、その不定形さゆえに、長期間に亘って利害関係を超越した関係を維持するというのは容易なことではないように思う。

この美術館では入館して一通り館内を巡り終えた頃にお茶かコーヒーを出して頂ける。今日は雨だったので、庭に面した大きな窓のそばに並べた古い椅子に腰掛けて、連れはコーヒー、私はお茶を頂く。雨でいっそう緑が濃く感じられる外をぼんやりと眺めながら「こうしているとなんかシアワセだな」という言葉を聞くと、思わず心の底からニンマリしてしまう。

「美術館」as it isの展示は適当に入れ替わるが、そのテーストはここのオーナーである坂田和實氏の著書「ひとりよがりのものさし」で語られている。私はここで紹介されているようなものを自分で所有したいとは思わないのだが、こうしてたまには眺めてみたいとは思う。