先日、木工の帰りにコーヒー豆を買いに武蔵境のミネルヴァに立ち寄った。たまたま最近読んだ「珈琲と文化」という雑誌にこの店のご主人が書いた記事が掲載されていて、どのような豆を扱っているのか興味を抱いたのである。
小売も勿論しているが、売上の基幹部分は会員向けの販売と卸売りだそうだ。現在の在庫は生豆で8トン。輸入禁止措置の長期化でこのところ国内市場では品薄のモカも、この店には様々な種類のものがそれぞれ豊富にある。常にCNNやBBCなどの海外メディアを視聴し、国際情勢や天変地異の情報に注意を払っているそうだ。何か感じるものがあれば、その地域の豆を調達して不測の事態に備えるのだという。しかし、必ず味を見て、値段に見合わない品質のものは、たとえ稀少品であっても買わないし、納得できれば躊躇せずに買うという。その結果が8トンの在庫なのだそうだ。
8トンといえば個人経営の焙煎業者にとっては膨大な量である。通常、珈琲豆は60キロ単位で取引される。しかし、単一種60キロの生豆をごくありふれた喫茶店で品質を維持できる期間内に消費するのは、よほど人気のある店でない限りは不可能である。そこで、どうしてもその豆が欲しいときは同志を募って、いくつかの店が共同で購入するものだという。
では、8トンの在庫を抱えるほど人気の店なのかといえば、少なくとも外見は、そのようには見えない。私が店主と話しこんでいた水曜日の昼下がりの40分間ほどの間、私以外の客はついぞ現れなかった。駅からは近いのだが、路地を少し入ったところにあり、静かな場所なのである。おまけに、この店は宣伝もしなければ安売りのような販売促進策も行わない。それでも、会員や卸の安定需要があり、そこに私のような飛び込みの客があり、経営は順調なのだそうだ。
興味深いのは、昨年10月頃から新規客が増えて、ますます忙しくなっているという。昨年10月といえば、世間は「百年に一度の大不況」などと喧伝されていた頃だ。マクロとミクロが一致しないのは常識ではあるが、実際に世間の潮流とは無縁に独自の世界を生きている人たちがいるのである。
この店は小規模であること、独自であること、宣伝しないこと、の3つを基本方針にしているという。詳細は割愛するが、店と客とが互いに相手を見通せる関係を指向しているということだ。今でこそ、資本の論理とやらで規模の経済性が追求されることが多いのだが、個人の生き方としては自分の間尺に合わない市場原理に乗ろうとするよりは、自分だけのルールで生きることができるなら、それに越したことはないと思う。
気のせいかもしれないが、ネットの普及につれて、自分で経験したこともないのに、さもわかっているかのような物言いをする奴が多くなったような気がする。又聞きで得た薄っぺらな知識をさも自分の定見であるかのように語るような奴は、知るということと理解するということの区別がつかないということだろう。そんな輩は価値基準の軸が自分のなかに無いから、世間の風向きが変われば容易に言説を変えて恥じることがない。実体のない空気のかたまりのようなもので、そんなのは付き合う価値がそもそもないのである。しかし、現実の社会ではそういう節操の無い奴ほど社会的地位が高くなったりする。単純に金銭を求めるなら、恥も外聞もなく勝ち馬に乗るという姿勢を捨ててはいけない。
私もいつか自分で商売をしたいと考えている。そこでは徹底的にアナログの世界を追求したいと思う。人生が残り少なくなってきたので、限りある時間を愛しみながら過ごしたい。そのためには、一緒に過ごして愉快な人とだけ付き合うようにしたいものだ。その相手が所謂「勝ち馬」なら、たいへん結構なことだし、そうでなくても一向に関係ない。「愉快な人」でありさえすればよい。
今日は、今まで飲んだことがないザンビア産の豆をベースにした「国境の鳥」というミネルヴァオリジナルブレンドを200g買った。
小売も勿論しているが、売上の基幹部分は会員向けの販売と卸売りだそうだ。現在の在庫は生豆で8トン。輸入禁止措置の長期化でこのところ国内市場では品薄のモカも、この店には様々な種類のものがそれぞれ豊富にある。常にCNNやBBCなどの海外メディアを視聴し、国際情勢や天変地異の情報に注意を払っているそうだ。何か感じるものがあれば、その地域の豆を調達して不測の事態に備えるのだという。しかし、必ず味を見て、値段に見合わない品質のものは、たとえ稀少品であっても買わないし、納得できれば躊躇せずに買うという。その結果が8トンの在庫なのだそうだ。
8トンといえば個人経営の焙煎業者にとっては膨大な量である。通常、珈琲豆は60キロ単位で取引される。しかし、単一種60キロの生豆をごくありふれた喫茶店で品質を維持できる期間内に消費するのは、よほど人気のある店でない限りは不可能である。そこで、どうしてもその豆が欲しいときは同志を募って、いくつかの店が共同で購入するものだという。
では、8トンの在庫を抱えるほど人気の店なのかといえば、少なくとも外見は、そのようには見えない。私が店主と話しこんでいた水曜日の昼下がりの40分間ほどの間、私以外の客はついぞ現れなかった。駅からは近いのだが、路地を少し入ったところにあり、静かな場所なのである。おまけに、この店は宣伝もしなければ安売りのような販売促進策も行わない。それでも、会員や卸の安定需要があり、そこに私のような飛び込みの客があり、経営は順調なのだそうだ。
興味深いのは、昨年10月頃から新規客が増えて、ますます忙しくなっているという。昨年10月といえば、世間は「百年に一度の大不況」などと喧伝されていた頃だ。マクロとミクロが一致しないのは常識ではあるが、実際に世間の潮流とは無縁に独自の世界を生きている人たちがいるのである。
この店は小規模であること、独自であること、宣伝しないこと、の3つを基本方針にしているという。詳細は割愛するが、店と客とが互いに相手を見通せる関係を指向しているということだ。今でこそ、資本の論理とやらで規模の経済性が追求されることが多いのだが、個人の生き方としては自分の間尺に合わない市場原理に乗ろうとするよりは、自分だけのルールで生きることができるなら、それに越したことはないと思う。
気のせいかもしれないが、ネットの普及につれて、自分で経験したこともないのに、さもわかっているかのような物言いをする奴が多くなったような気がする。又聞きで得た薄っぺらな知識をさも自分の定見であるかのように語るような奴は、知るということと理解するということの区別がつかないということだろう。そんな輩は価値基準の軸が自分のなかに無いから、世間の風向きが変われば容易に言説を変えて恥じることがない。実体のない空気のかたまりのようなもので、そんなのは付き合う価値がそもそもないのである。しかし、現実の社会ではそういう節操の無い奴ほど社会的地位が高くなったりする。単純に金銭を求めるなら、恥も外聞もなく勝ち馬に乗るという姿勢を捨ててはいけない。
私もいつか自分で商売をしたいと考えている。そこでは徹底的にアナログの世界を追求したいと思う。人生が残り少なくなってきたので、限りある時間を愛しみながら過ごしたい。そのためには、一緒に過ごして愉快な人とだけ付き合うようにしたいものだ。その相手が所謂「勝ち馬」なら、たいへん結構なことだし、そうでなくても一向に関係ない。「愉快な人」でありさえすればよい。
今日は、今まで飲んだことがないザンビア産の豆をベースにした「国境の鳥」というミネルヴァオリジナルブレンドを200g買った。