金の値段が上がっているという。迷惑なことである。
若い頃に、ふと、金の延べ棒を枕にして昼寝がしてみたいと考えた。それで純金積立というものを始めた。月々ささやかな金額で金を買うのだが、始めてから最初の10年ほどは金相場が下げ続けた。年に2回、金の業者から売買報告書が届くのだが、極微妙な量ずつではあるが毎月の購入量が増えていた。しかし、その月間購入量たるや目糞くらいの量で、それが増えたところでせいぜい鼻糞並みだ。世紀の変わり目の頃になって、相場は上昇に転じ、そうなると鼻糞は目糞に戻る。これでは、一生かかっても20kgの延べ棒に達するのは絶望的である。
積立を始める前にどれくらいずつ積み立てれば何年で延べ棒になるのかということを認識しておけばよかったのだが、始めた頃には、年齢を重ねる毎に所得も増えて積立額も増えるだろう、と、何の根拠も無く期待していた。現実は、積立開始から今日に至るまで、積立金額は同じである。増える気配すらない。「継続は力」という言葉もあるが、継続しても中途半端なだけということも人生のなかでは無数にある。
仕方がないので、目標を20kgから1kgに引き下げて続けることにした。ようやく、まだ遠くに霞んではいるものの、その目標が小さく見え始めてきた。それが3年前あたりから一向に近づいてこない。この調子だと1kgに達するのは今の自分の親の年齢になる頃だ。果たしてそんな先まで生きているかどうかもわからない。
日本で暮らしていると、かつては賑わっていたという印象がある商店街が無残に寂れてしまっていたり、そうした商店街に取って代わったはずの大型商業施設も姿を消してしまったり、遊園地のような集客施設が次々と閉園したり、と生活圏が日に日に崩壊していくように感じられる。しかし、世界の人口は爆発的に増加を続け、二酸化炭素の排出削減などというとらえどころのない話が真剣に語り合われたりしている。つまり、実感はないのだが、世界はかなり混雑しているようなのである。当然、人間の生活に必要な資源は足りなくなる。金というのは極めて安定した物質なので電子部品材料としては欠くことのできないものであり、身の回りには思いの外に金が使われている。そうした実際上の必要に基づく用途が生まれる遥か以前から富の象徴という記号性も担ってきたので、経済成長に伴う実需と、それがもたらす成り上がり向けの社会的需要が、当然に拡大するということなのだろう。さらに、世界の枠組みも変化を続けているので、例えば基軸通貨という幻想を背負ってきたドルの信認がいよいよ揺らいでくれば、世界の富はドル資産から逃避を始めることになり、その避難先のひとつとして金が選好されるということもあるのだろう。
先日、純金積立をしている業者から残高報告書と一緒に届いたニュースレターによると、実需は宝飾用、工業・歯科用を中心に落ち込んでいる一方で、投資需要が増え、全体としては2009年前半で前年同期比13%の需要増加だったのだそうだ。投資需要だけを見れば前年同期比2.5倍だという。投資需要は昨年後半から急増する一方で、実需が急減している。この1年、世の中が右往左往している間に、中国とロシアはコツコツと金準備を積み増している。ドルが売られた背景にはこうした超大国の外貨準備の分散という面もあるようだ。リスク管理の一環として、それまで比較的注目度の低かった資産が見直されたということでもあるのだろう。とすると、高値を追うのはリスク管理上問題があるだろう。事実、第2四半期は需要の伸びが鈍化している。金は天下の回り物、というが、なるほど私の手の届かないところでぐるぐる回っている。
かくして金の枕は蜃気楼のように消え去り、今日も蕎麦殻の枕で昼寝をする。
若い頃に、ふと、金の延べ棒を枕にして昼寝がしてみたいと考えた。それで純金積立というものを始めた。月々ささやかな金額で金を買うのだが、始めてから最初の10年ほどは金相場が下げ続けた。年に2回、金の業者から売買報告書が届くのだが、極微妙な量ずつではあるが毎月の購入量が増えていた。しかし、その月間購入量たるや目糞くらいの量で、それが増えたところでせいぜい鼻糞並みだ。世紀の変わり目の頃になって、相場は上昇に転じ、そうなると鼻糞は目糞に戻る。これでは、一生かかっても20kgの延べ棒に達するのは絶望的である。
積立を始める前にどれくらいずつ積み立てれば何年で延べ棒になるのかということを認識しておけばよかったのだが、始めた頃には、年齢を重ねる毎に所得も増えて積立額も増えるだろう、と、何の根拠も無く期待していた。現実は、積立開始から今日に至るまで、積立金額は同じである。増える気配すらない。「継続は力」という言葉もあるが、継続しても中途半端なだけということも人生のなかでは無数にある。
仕方がないので、目標を20kgから1kgに引き下げて続けることにした。ようやく、まだ遠くに霞んではいるものの、その目標が小さく見え始めてきた。それが3年前あたりから一向に近づいてこない。この調子だと1kgに達するのは今の自分の親の年齢になる頃だ。果たしてそんな先まで生きているかどうかもわからない。
日本で暮らしていると、かつては賑わっていたという印象がある商店街が無残に寂れてしまっていたり、そうした商店街に取って代わったはずの大型商業施設も姿を消してしまったり、遊園地のような集客施設が次々と閉園したり、と生活圏が日に日に崩壊していくように感じられる。しかし、世界の人口は爆発的に増加を続け、二酸化炭素の排出削減などというとらえどころのない話が真剣に語り合われたりしている。つまり、実感はないのだが、世界はかなり混雑しているようなのである。当然、人間の生活に必要な資源は足りなくなる。金というのは極めて安定した物質なので電子部品材料としては欠くことのできないものであり、身の回りには思いの外に金が使われている。そうした実際上の必要に基づく用途が生まれる遥か以前から富の象徴という記号性も担ってきたので、経済成長に伴う実需と、それがもたらす成り上がり向けの社会的需要が、当然に拡大するということなのだろう。さらに、世界の枠組みも変化を続けているので、例えば基軸通貨という幻想を背負ってきたドルの信認がいよいよ揺らいでくれば、世界の富はドル資産から逃避を始めることになり、その避難先のひとつとして金が選好されるということもあるのだろう。
先日、純金積立をしている業者から残高報告書と一緒に届いたニュースレターによると、実需は宝飾用、工業・歯科用を中心に落ち込んでいる一方で、投資需要が増え、全体としては2009年前半で前年同期比13%の需要増加だったのだそうだ。投資需要だけを見れば前年同期比2.5倍だという。投資需要は昨年後半から急増する一方で、実需が急減している。この1年、世の中が右往左往している間に、中国とロシアはコツコツと金準備を積み増している。ドルが売られた背景にはこうした超大国の外貨準備の分散という面もあるようだ。リスク管理の一環として、それまで比較的注目度の低かった資産が見直されたということでもあるのだろう。とすると、高値を追うのはリスク管理上問題があるだろう。事実、第2四半期は需要の伸びが鈍化している。金は天下の回り物、というが、なるほど私の手の届かないところでぐるぐる回っている。
かくして金の枕は蜃気楼のように消え去り、今日も蕎麦殻の枕で昼寝をする。