前日銀総裁である福井俊彦氏の講演を聴く機会を得た。講演内容の根幹については既にメディアで報じられているので、ここには書かない。枝葉のところで興味深かったのは、所謂「グローバル化」で何が変わったのかということについての氏の指摘である。「信用」が揺らぐというのだ。
信用が揺らぐという話は講演のなかでさらっと触れられただけなのだが、そこが自分のなかでは妙に印象に残ってしまった。情報通信技術の発達で、世界はすっかり小さくなってしまった。それは誰しもが実感していることだろう。例えば、2年ぶりに台風が日本列島の本州に上陸して、大きな被害をもたらしたという事実は、ほぼ同時にニューヨークにいる人にも、ニューカレドニアにいる人にも、ニューファンドランドにいる人にも伝わる。世界中で情報が共有されるということは、ある事象が発生したときに、世界中がその事象に対して反応するということなのである。このことが何を意味するかといえば、何か事件が発生してそれに対する行動を起こさなければならないときに、我々には思考する時間的余裕が無いということだ。「とりあえず」それまでの経験と習慣に基づいた行動を起こす。幸か不幸か人間の考えることというのは似たようなものなので、世界中で同じような反応が起こる。結果として、変化は増幅され、それまでの経験や習慣では対応できない事態に発展する。過去の経験を超えたところでは「信用」というものが成り立たない。
ところが、我々の社会は信用に拠って成り立っている。その端的な象徴は貨幣だ。ただの紙切れが価値の象徴として流通するのは、そこにその紙幣を発行している権力に対する信用があるからに他ならない。先日、金の話を書いたが、ある国の人々は財産を預金や現金よりも金や政治の安定している国の不動産というようなものにして保有するという。激動の時代を生き抜いてきた民族の知恵がそうさせるのだろう。今、金や原油をはじめとする現物資産市場に資金が流入しているようだが、それが意味しているのは、新興国の経済成長に伴う需要増大という側面もあるだろうが、それ以上に既存の信用の枠組みが揺らいでいるということなのだろう。
米国の政権が共和党から民主党に変わったのも、日本で自民党政権が瓦解したのも、偶然重なったことではなく、昨年の金融危機を引き金にした世界の枠組みの変化という一連の流れのなかで捉えられるべきことなのだろう。おそらく、世の中の様々な「権力」の利害が「国家」という枠組みによってある程度のまとまりを得ていた時代であれば、今頃は世界大戦が勃発しているのかもしれない。そうならないのは、もはや「権力」と「国家」とが単純に結びつかないからに過ぎないのだろう。物事があまりに即時につながったり切れたりするので、利害の対立が生じたときの当事者が固定されないのである。しかし、そうした状況が「平和」というイメージから程遠く感じられるのは私だけではあるまい。戦争か平和かという単純な割り切りでしか物事を捉えることができないのはよほどおめでたい人だろう。
確かに日常の風景のなかで直接的に命の危険を感じる場面というのはそれほどないだろう。物質的には不自由は無く、今日の延長線上に明日があると当然の如くに思える。しかし、殊この国に関しては、そういう時代がもうすぐ終わりを迎えるような気がするのである。これまでに誰もが経験したことのない事実が重ねられている。人口が減少に転じ、数年のうちに「世界第二位の経済大国」という看板も中国に譲ることになる。すでに世界的なブランドの直営店舗が日本から姿を消し始めている。経済力が低下する一方で国も国民も成長のなかで築き上げた費用構造を容易に変換することはできず、結果として借金が雪だるまのように膨れ上がる。既に公的債務残高のGDP比率は200%を超えてG7のなかでは突出している。日本に次いで高いのはイタリアの115%で他に100%を超えている国はない。
そうした劇的動態のなかで社会の秩序を守ることが可能なのかという素朴が疑問が湧いてくる。ろくに意味も理解されないままに「自己責任」という言葉が使われているが、結局は、個人が自分自身の生きかたを問い直し、その基盤となる哲学のようなものを持たないことには、未曾有の変化に振り回されながら愚痴と不平不満と逆恨みにまみれた不幸なことになるのだろう。
信用が揺らぐという話は講演のなかでさらっと触れられただけなのだが、そこが自分のなかでは妙に印象に残ってしまった。情報通信技術の発達で、世界はすっかり小さくなってしまった。それは誰しもが実感していることだろう。例えば、2年ぶりに台風が日本列島の本州に上陸して、大きな被害をもたらしたという事実は、ほぼ同時にニューヨークにいる人にも、ニューカレドニアにいる人にも、ニューファンドランドにいる人にも伝わる。世界中で情報が共有されるということは、ある事象が発生したときに、世界中がその事象に対して反応するということなのである。このことが何を意味するかといえば、何か事件が発生してそれに対する行動を起こさなければならないときに、我々には思考する時間的余裕が無いということだ。「とりあえず」それまでの経験と習慣に基づいた行動を起こす。幸か不幸か人間の考えることというのは似たようなものなので、世界中で同じような反応が起こる。結果として、変化は増幅され、それまでの経験や習慣では対応できない事態に発展する。過去の経験を超えたところでは「信用」というものが成り立たない。
ところが、我々の社会は信用に拠って成り立っている。その端的な象徴は貨幣だ。ただの紙切れが価値の象徴として流通するのは、そこにその紙幣を発行している権力に対する信用があるからに他ならない。先日、金の話を書いたが、ある国の人々は財産を預金や現金よりも金や政治の安定している国の不動産というようなものにして保有するという。激動の時代を生き抜いてきた民族の知恵がそうさせるのだろう。今、金や原油をはじめとする現物資産市場に資金が流入しているようだが、それが意味しているのは、新興国の経済成長に伴う需要増大という側面もあるだろうが、それ以上に既存の信用の枠組みが揺らいでいるということなのだろう。
米国の政権が共和党から民主党に変わったのも、日本で自民党政権が瓦解したのも、偶然重なったことではなく、昨年の金融危機を引き金にした世界の枠組みの変化という一連の流れのなかで捉えられるべきことなのだろう。おそらく、世の中の様々な「権力」の利害が「国家」という枠組みによってある程度のまとまりを得ていた時代であれば、今頃は世界大戦が勃発しているのかもしれない。そうならないのは、もはや「権力」と「国家」とが単純に結びつかないからに過ぎないのだろう。物事があまりに即時につながったり切れたりするので、利害の対立が生じたときの当事者が固定されないのである。しかし、そうした状況が「平和」というイメージから程遠く感じられるのは私だけではあるまい。戦争か平和かという単純な割り切りでしか物事を捉えることができないのはよほどおめでたい人だろう。
確かに日常の風景のなかで直接的に命の危険を感じる場面というのはそれほどないだろう。物質的には不自由は無く、今日の延長線上に明日があると当然の如くに思える。しかし、殊この国に関しては、そういう時代がもうすぐ終わりを迎えるような気がするのである。これまでに誰もが経験したことのない事実が重ねられている。人口が減少に転じ、数年のうちに「世界第二位の経済大国」という看板も中国に譲ることになる。すでに世界的なブランドの直営店舗が日本から姿を消し始めている。経済力が低下する一方で国も国民も成長のなかで築き上げた費用構造を容易に変換することはできず、結果として借金が雪だるまのように膨れ上がる。既に公的債務残高のGDP比率は200%を超えてG7のなかでは突出している。日本に次いで高いのはイタリアの115%で他に100%を超えている国はない。
そうした劇的動態のなかで社会の秩序を守ることが可能なのかという素朴が疑問が湧いてくる。ろくに意味も理解されないままに「自己責任」という言葉が使われているが、結局は、個人が自分自身の生きかたを問い直し、その基盤となる哲学のようなものを持たないことには、未曾有の変化に振り回されながら愚痴と不平不満と逆恨みにまみれた不幸なことになるのだろう。