熊本熊的日常

日常生活についての雑記

野生の感覚

2009年10月28日 | Weblog
今日の木工教室では、製作中の2つ目の桐箱にヤスリをかけて目違いを修正する作業に没頭した。指先の感覚に集中して、仕上がり具合を撫でながら確認する。ヤスリをかける動作自体はそれほど負担には感じないのだが、作業が一段落して緊張感が解けると、心地よい疲労感に襲われる。陶芸で土に触れているときも同じである。土を練るにしても、轆轤を挽くにしても、半乾きのものを削るにしても、指先や手のひらの感触に神経を集中する作業をした後は、似たような疲労感を味わうことになる。それは、セックスの後のそれにも似ている。

おそらく、普段は使わない脳の部分を使うことによる疲労なのだろう。「文明」と呼ばれるもののなかで生活をしていると、身体能力のなかで使うものはおのずと限定されてしまう。文明は人間が最初から持っていたものではなく、たかだか5,000年程度の間に少しずつ獲得してきたものにすぎない。もともとは人間も他の生き物と同じように五感を駆使して必死に命を繫いできたはずである。それが、知恵を働かせて生活の利便性を向上させるに従い、結果的にあまり使うことのない感覚とか能力が増えてきたのではないかと思う。普段の生活を何気なく送っていれば、運動不足になってみたり、見るも無残に肥満してしまったり、そうしたことがもとで病気になってしまったりする。それで人によっては、「健康を維持するため」わざわざ費用を投じて運動施設に通ったりしている。私も週末には近所の公営体育館にあるプールを利用している。なにがどう、というのではないのだが、「健康のために」とか「身体にいいから」という理由で、わざわざ時間や費用をかけて意識的に何事かを行うというのは、妙な感じがしてならない。

文明の恩恵に浴して生活していながらそのことを批判するつもりはないが、便利さというものを安易に追求すると、生きているという感覚が少しずつ希薄になるような気がするのである。例えば、いよいよ最期を迎えた人がベッドの上で様々な機械類とコードやチューブで接続されて横たわっている姿を見ると、私は痛々しいと感じる。しかし、その私の生活は、目には見えないけれど、無数のコードやチューブで巨大な生命維持装置につながれているのである。それを思えば、自分の姿も最期の人に負けず劣らず痛々しい。

木工や陶芸で感じる「心地よい疲労感」というのは、自分が生き物として自然な状態に戻る刹那の開放感なのかもしれない。