熊本熊的日常

日常生活についての雑記

文七元結

2011年01月16日 | Weblog
喬太郎と文左衛門の二人会を聴いてきた。トリは文左衛門で「文七元結」。「今の時期でないとできない噺」としてマクラ無しで口演した。

「今の時期」というのは冬の寒い時期という意味だと思うが、不景気で世知辛い時代という意味も兼ねているように感じた。噺のほうは有名なので、ここで改めて紹介しないが、江戸という場所の特殊性を理解しないと、噺の世界に入り込めないように思う。江戸というより、都市の特殊性と言ったほうが適切かもしれない。

人が生きる上で何よりも必要なのは食である。人類の歴史を遡れば、農耕や狩猟によって生計を立てるというのが基本であった時代が圧倒的に長い。都市が成り立つためには、都市で生活する人々を賄うに足る余剰生産物が無ければならない。

生産能力というのは、要するに知恵と知能だ。農作物や狩猟の対象物の生命史を理解し、それらを取り巻く環境を理解し、生産者であり消費者でもある自分自身の生命と環境についても理解がないと収穫を得ることはできない。余剰生産物も継続して獲得することで、それらの存在が社会のなかに定着し、流通や保管にまつわる技術や仕事が発生する。あくまで私の印象でしかないのだが、この余剰生産物の流通と保管に深く関与する人のなかから権力が生まれているように思う。自らが生産活動に関与していないことの不安が、余剰生産物を獲得し管理することへの執着を生むのではないだろうか。それが権力につながるのではないだろうか。

幕府が置かれて以降の江戸は政治都市だ。今とは違って市街は限定されていたので、農耕地の割合はそれなりの規模であっただろう。それにしても、武士や町人といった生産活動に従事しない人々の生活が国内のどの都市よりも広く厚く展開してはずだ。果たして彼らの日常生活を支える感覚はどのようなものであったのだろうか。

よく「江戸っ子」は「宵越しの金は持たない」などと言われる。江戸時代中期以降はたびたび倹約令が出されていることから推察されるように、幕府財政は危機に瀕していたことだろう。その治世下の民衆も、特に生産活動から縁遠い人々ほど経済的に困窮していたのではないだろうか。それでも町人文化が栄えたのは、封建制の厳しい身分制のなかで、分というものがわきまえられていて、無ければ無いなりの生活を当然のことと受け容れる土壌があったのではないだろうか。「宵越しの金を持たない」のではなく「持てない」のが多数派だったという現実があったのではないか。だから逆に富への執着は薄く、義理人情とも呼べるような互助的な仕組みが機能していたのではないだろうか。

「文七元結」のなかで主人公の長兵衛は娘のお久をかたに遊郭の主人から借りた50両を、集金した50両を失くして身投げしようとしていた大店「近卯屋」の手代の文七にくれてしまう。このくだりが話として聴衆に素直に受け容れられるか否かは、江戸町人の金銭感覚への共感の強弱に拠るだろう。そして、この部分への理解が噺全体への理解の要になるのではないだろうか。

「文七元結」が成立したのは明治に入ってからのことだ。作者は圓朝で、明治に入って東京で幅を利かせていた薩長などの田舎者への反発心から本作を作ったとも言われている。いかに「江戸っ子」でも、さすがに娘をかたに作った金を見ず知らずの人に渡してしまうということは現実には無かっただろうが、「宵越しの金を持たない」でいても生活を送ってきた江戸町人の義理人情あるいは善意というものへの誇りが描かれているように見える。

今、この噺を聴く我々は、その情や誇りに素直に共感できるだろうか。グローバルだのなんだのと、目先の利を追うことに汲々としている時代に、「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」という潔さで自分の眼を信じ、その眼にかなった人を信じる姿勢を示すことのできる人がどれほどいるのだろうか。

本日の演目
「牛ほめ」柳亭市也
「雑俳」橘家文左衛門
「抜け雀」柳家喬太郎
(中入り)
「反対車」柳家喬太郎
「文七元結」橘家文左衛門

会場:EBIS303
開演:18時頃
閉演:21時頃

饒舌な日

2011年01月15日 | Weblog
今日は初釜。午前11時から午後4時まで席入りの稽古、炭手前の拝見、食事、濃茶、薄茶と続いた。濃茶は原則私語厳禁だが、他は和気藹々と楽しいひと時を過ごす。その後、一旦帰宅して荷物を持ち替えて、実家へ向かう。途中、十条で下車してFINDで作品展の搬入時間の確認を兼ねてコーヒーとケーキをいただく。たまたま他に客のいない時間だったので、コーヒーのことやあれやこれやと1時間ほど店の人達と話し込む。なんとなく会話に満ちた一日だった。

お茶で隣の席の人と会話をしていて深く同感したのだが、その方曰く、
「私たちは生活のなかで手を省くことばかり考えるけど、お茶は逆に手をかけることを考えるんですよね。それが所作の美しさになりますね。」
私はこのように返事をした。
「手をかけるのは、相手に対する配慮の表現でしょうね。思い思われるというところに、人としての美しさがあるんじゃないでしょうか。」

正直なところ、お茶の稽古は難儀だ。一番難儀なのは長時間座っていなければならないことで、次に難儀なのは細かい所作の約束事がなかなか身につかないことだ。それでも、美味しいお茶やお菓子がいただけたり、先生や他の生徒さんたちとの会話が楽しかったり、所作・作法から考えさせられることがあったり、そうした諸々の魅力があるので、なんとか2回目の初釜を迎えることができたのだと思う。

茶道を習い始めたのは、陶芸をする上で茶碗というものについて知りたかったからだ。茶道そのものに興味があったわけではなかったのだが、始めてみればそれなりに関心が高まるものだ。茶道に関して、これまでは受動的な関わり方しかしてこなかったが、そろそろ腰を据えて向き合うことを考えてもよいのではないかと感じている。目下最大の関心は所作や作法そのものよりも、その背後にある考え方なのだが、何事においても実践を抜きに思考することはできない。物理的に存在するところの身体動作や道具類を自分自身の経験として咀嚼しないことには思考したことにはならない。

思考することで眼前に現れるものの豊饒を多少なりとも実感すれば、それまで単なる風景でしかなかったものが、饒舌に語りかけてくるようになるのである。ただの世間話でしかなかったもののなかに物事の核心に触れるかのような原石がちりばめられていることを発見するのである。勿論、生活のために不本意なことも受容しなければならない局面も多々あるのが現実だが、その現実も単なる忍耐の対象とするのではなく、思考の種の宝庫と捉えることができれば、生活の実感はそれまでとは全く違ったものになる。

早帰りの夜

2011年01月14日 | Weblog
今日は勤務先が入居するビルの法定点検とかで電源を落とすため、午後9時に終業となった。普段は午後7時過ぎにビルの中にある飲食店やスーパーの弁当を買いに席を離れるのだが、今日は終業まで席を離れず、終業後に小松庵で鴨南蛮をいただいてから帰宅した。

夜の仕事なので、夕食にまともな外食をする機会がないのだが、たまにそういう機会に恵まれたときには美味しいものをいただくことにしている。やはり冬はせいろよりも暖かいもののほうが身体が喜ぶし、蕎麦の具材で冬に旨いといえば鴨だろう。昨日も旬の食べ物について触れたが、せっかく四季に恵まれた文化のなかで生活しているのだから、自炊でも外食でも、その時々の味というものを楽しまなければ生きている甲斐がないというものだ。

先日、菅野さんの工場にお邪魔したときも、食卓に並んだマダム清子製の燻製に舌鼓を打ちながら「鴨は旨い」という話題が出たのだが、私は肉のなかでは鴨が一番旨いのではないかと思っている。昔、ドイツでホームステイをしていたお宅からクリスマスに招待されたときも、「どんな食べ物が好きか」と尋ねられて、うっかり「鴨」と即答してしまったら、数日後の食卓に鴨の丸焼きが登場した。鴨はドイツでも高価な食材だと後で知って、遅まきながら恐縮してしまった思い出もある。

そんなわけで、普段は汁蕎麦の汁は残すのだが、今夜は鴨南蛮完食。ちなみに蕎麦のほうは、今日は北海道新得町産の蕎麦粉で打ったものだそうだ。一昨年、昨年と蕎麦が不作でその調達には苦心しているそうだが、そうした事情を感じさせない美味しい蕎麦だ。

2011年01月13日 | Weblog
以前にも書いたように自炊用の食材はほぼ全量を生協の宅配で賄っている。週に一度の配達で、毎回カタログから選んでネットで発注する仕組みだ。産地が明記されているので、その時々でその土地土地の様子を想像する楽しみもある。野菜類は東京周辺のものが多いような印象があるが、果物はそれぞれに得意とする地域があるのだろう。それでも小田原産のキーウィというのは意外感があった。また、タイ産のバナナに貼ってあった番号を指定されていたネットサイトから検索したら生産農家だというおじさんがにこやかに畑に立っている映像が出てくるというのも楽しかったりする。

玉葱やピーマンのように通年で発注しているものもあるが、多くの野菜や果物はそれぞれに旬がある。桃が好きなので、昨年の夏などは毎回のように桃をいただいていた。果物では、今の時期はやはりリンゴとミカンが旬なのだろう。嫌いなわけではないのだが、ミカンにはなんとなく手が出ない。逆に特別好きでもないのだが、リンゴは食卓に絶えることがない。自分で作った陶器の鉢に果物を盛ってテーブルの中央に置いておくのだが、リンゴが積み上げてある様子というのが、なんとなく好きだ。果物に関してこの1年間を振り返れば、冬はリンゴで夏は桃、秋の短期間を柿、その端境期はキーウィやバナナなどで埋めるというパターンだった。

果物の多くは木に生るものなので季節性が強く出るが、野菜はハウス栽培もあるので果物ほどの季節感は出ないように思う。それでも、例えば今の時期は春菊がおいしい。最近はよく昆布の出汁で牡蠣と茸を煮て味噌と酒で味を調え、そこに春菊を一把、適当な大きさに切り揃えたものを入れて数分間蒸すような感じにしたものを作っていただいている。春菊一把というと、見た目には多く感じるが、火を通すと水分が抜けてしまうので嵩は小さくなって、ひとりでも十分に食べきれてしまう。もちろん食べて美味しいが、鍋の蓋を取ったときに、ふわっと上がる春菊の香りがいい。これは短時間でできる、いや短時間で作らなければならない料理なので、普段の食卓にちょうどよい。春菊も牡蠣もキノコ類も火を通しすぎると美味しくなくなってしまうので、手早く作ることが肝心だ。

一人暮らしなので、使用量や使い残したものの保存の関係で使いづらい食材もあるので、旬のものならどのようなものでも使ってみるというわけにはいかないのは残念に思っている。しかし、それは私自身の工夫でどうにでもなることではある。少しずつ新しい食材を取り入れていくよう心がけたいものだ。

また、以前にも書いた記憶があるが、インスタントやレトルトなどの工場生産品はなるべく自炊の食卓には用いないことにしている。食品加工の技術や、そうしたことに関わる人々の気概や情熱を否定するつもりはないのだが、人の命を紡ぐのは物理的な栄養素ではなくて、その背後になければならない気持ではないかと思うのである。その気になれば生産している人に会いに行くことのできるようなもので生活を作りあげていくことを楽しいと感じることができなくなったら、その時は死のうと思う。

2011年01月12日 | Weblog

木工で製作中のミニ箱膳が漸く完成した。今日は先週組んだ蓋の材の合わせ目をヤスリできれいにし、さらに蓋全体にもやすりをかけた。本体と併せて支障のないことを改めて確認し、本体と蓋とに蜜蝋を塗りこむ。蜜蝋の乾燥を待つ必要があるので持ち帰りは来週だ。いろいろ問題があって、人に譲るつもりはないのだが、作品展にも並べてみようと思っている。

以前にも書いたように、この箱膳は杉で作った。杉には多くの地域品種があるのだが、自分が使った杉がどこのものかはわからない。東急ハンズで購入したが、陳列棚にも産地までは書いていないし、多様な産地のものが集められているのだろう。そうした細かな差異はともかくとして、材としての杉の特徴は含水率の高さにある。杉は手触りが柔らかで木目が美しいが、柔らかいということは水気を多く含んでいるということでもあり、その水分が蒸発する際に材が変形しやすいということでもある。

木工を習い始めた頃に作ったものに、杉材で作ったゴミ箱がある。使い始めて1年以上が経過するが、割れや歪みもなく、部屋に馴染んでいる。ただ、このゴミ箱は口の部分を松系の材で縁取ってある。これにより意匠的にはアクセントになっているし、構造的には口部分の変形を防止している。

今回製作した箱膳は口の部分に止めとなるものがない。しかも、側板の接合は接着剤だけである。長期間の使用のなかで側板の変形になどによって接合部分が剥がれてくるというようなことは起こらないものなのかどうなのか、杞憂だとは思うが、それでも気にはなっている。

木工を始めてから、自然に生活のなかの木が気になるようになった。何かを作るためにホームセンターへ木を買いにいくと否応なくいろいろな材を見比べることになるが、私は杉の木目が一番好きだ。材のままでもよいが、やはり生活の道具に加工して、表面を削ったり磨いたりすれば、その木目が更に味わい深いものになっていく。その変化の道程も好きだし、手を入れて一段と綺麗な姿になった木目も好きだ。杉材だけを使った家具やインテリアもあるようだが、販売することを前提に杉材を使うとなると含水率の高さが問題になるので、何十年も乾燥させた材を使うことになる。当然、乾燥期間も費用のうちに入ってくる。そうなると誰もが気軽に使うことのできる材ではなくなってしまう。

木であろうとコンクリートであろうと石であろうと、我々が暮らす世界のなかにある素材であることに違いはない。しかし、木に囲まれて暮らすのとコンクリートや石のなかで暮らすのは同じことではないように思う。もちろんそれぞれに良さもあれば問題もあるだろう。ただ、自分の場合は、日本に生まれ育ちながら、日本特産の杉という素材といまひとつ上手く付き合えていないようなもどかしさを感じるのである。付き合いが上手くいっていないのは私だけではないようで、花粉症などが流行するのは杉の山林の手入れが行き届かずに荒廃が進行している所為でもあろう。公の問題はともかくとして、個人として杉というものをなんとか生活のなかに取り込みたいと思うのだが、何か妙案は無いものだろうか。


ナポリタンスパゲティ

2011年01月11日 | Weblog
陶芸教室からの帰り、昼食を何にしようかと迷いながら巣鴨に戻り、なんとなく先日訪れたカレーワールドへ向かって歩いていた。しかし、日曜はFINDでランチ・カレーを食べ、月曜は自分で作ったシーフード・カレーを食べ、というようにカレーが続いているので、今日もカレーでよいものかどうか迷っていた。カレーワールドの前に来たとき、その向かいに「スパゲティ&コーヒー らくだ」という看板の出ている小さな喫茶店風の店が目に入った。今日はこちらへ入ってみることにした。

店構えは、一見したところ、昔ながらの小さな喫茶店だ。戸を開けて中に入る。入口近くの席はどれも先客がいたので、その傍らを通り抜けて奥へ進む。すると、視界が開ける。2階までの吹き抜けの空間があり、大きめの窓から外光が差し込んでいる。中央に大きなカウンターが曲線を描いており、向かって右端に2階への階段がある。カウンターの奥、2階席の直下がキッチンのようだ。床もカウンターもテーブルも椅子も、ちょうどよい具合に年季が入っている。椅子はウィンザーチェアで、それが店内に調和しているかのように見える全体の雰囲気である。

「スパゲティ&コーヒー」というくらいなので、メニューのなかから迷わずスパゲティのナポリタンを注文する。昼食時はランチサービスとして、小さなサラダとスープとコーヒーがセットで付いてくる。

近頃はナポリタンスパゲティというものをあまり目にすることが無くなったが、私が子供の頃は喫茶店の食事メニューには必ずといっていいほどナポリタンスパゲティとミートソーススパゲティがあったし、日常の食材にも「ナポリタンの素」とか「ミートソース」というようなものはあった。今でも商品としてはあるのだろうが、かつてほどの存在感は無いように思う。10年ほど前だったろうか、出張でカリフォルニアのサニーベールという町に出かけたとき、町のレストランで“Spaghetti Neapolitan”というのをたまたま見つけたので注文してみたら、具材の入っていないトマトソースだけがかかったパスタが目の前に現れた。玉葱、ピーマン、ソーセージをケチャップベースのソースに仕立て、それにうどんのように茹でたパスタを絡める、あの「ナポリタン」は戦後、横浜のホテルニューグランドで総料理長を務めていた入江茂忠氏が考案した、日本の料理なのだそうだ。

それで「らくだ」のナポリタンだが、メニューには「ナポリタン(トマトソース)」と「ナポリタン(ケチャップ)」の2種類がある。トマトソースがメニューの先頭だったので、そちらを注文したが、今、こうしてそのときのことを文章に起こしてみると、ケチャップのほうを頼むべきだったかなと多少の後悔の念が無いでもない。注文したトマトソースのナポリタンは見るからに「トマトソース」だった。「トマトソース」以外の名前を決然として拒否するかのような「トマトソース」だ。パスタはうどん茹でではなく、かといってアルデンテでもない、よく家庭料理に出てきそうなものだ。たぶん、私が自分でナポリタンスパゲティを作ろうと思って作っても同じものを作るだろう。そういう料理だ。それは美味しいとかなんとかいうようなことではなく、口にしてほっとするようなものだ。

食後のコーヒーがまた良かった。たまたま抽出するところを目にすることができたのだが、大きなネルの袋にコーヒーの粉をどっさり入れて、おおきなポットで湯を注ぐのである。昔の喫茶店にはよくあった風景だ。これもまた美味しい云々の話ではない。これはこれで良いのだ。

かつての職場の同僚でワイン通の人がいた。一緒に飲みにいくと、傍にいてはらはらするほどああでもないこうでもないと細かいことを店の人に言って、最終的にソムリエや店のマネージャーまで引っ張り出してしまうような人だった。その彼が、ワイングラスをくるくる廻しながら、こんなことを言っていたのを思い出した。
「いまでこそ、こんな小うるさいこと言って飲んでるけどね、初めて飲んだワインは「赤玉」だったんだよ。今じゃ飲めないけど、あのときは心底旨いと思ったんだよね。」

街角の小さなドアを抜けて、日本がまだ元気だった頃の世界に戻ったような、冬の日の午後だった。

一週間前

2011年01月10日 | Weblog
初めての作品展まで一週間となった。昨日は会場であるFINDを訪れ、ギャラリーの採寸をしながら、少し陳列のことを考えた。出品作品をまとめたところ、陶芸作品だけで55点あった。大雑把に値段も決め、会場に掲示する挨拶文や自己紹介なども考え、購入して頂いた際に、商品に添付する口上文も作成した。これらは少し時間を置いて見直し、今週中に印刷することにしている。これらはそれぞれ極小部数なので自分のインクジェットプリンターで印刷する。インクカートリッジが足りなくなるといけないので、いつも利用しているネット通販にカートリッジを発注しておいた。

FINDからの帰りに板橋区内にあるホームセンターに寄る。木工で製作中のミニ箱膳が今週で完成する予定なので、次に製作予定の移動書架の材料を探した。SPFのつもりだったが、エゾマツの木目が綺麗だったので、エゾマツにしようかと考えた。SPFもエゾマツも割れ易いとのことだったので、底にキャスターを取り付けても大丈夫かとか、キャスターを付ける場合の対荷重のチェックのため、今日は買わずに、必要なことをメモだけしておく。今日、ホームセンターで購入したのは、台所用の洗剤、水周りのカビ除去剤、先日から製作中の新聞バッグ用の澱粉糊、発泡ポリエチレンシートなど。それにしても、ホームセンターというところは面白そうなものがいっぱいある。棚のものを眺めて歩き回っているだけで、あっという間に一時間が経過していた。

今日は昨日買ってきた澱粉糊を使って新聞バッグを作った。半日近くかけて20個作る。これで総計48個となった。これで間に合うと思われるので、糊は少し余ったが、バッグ作りは打ち止め。尤も、バッグのほうは使うかどうかわからない。念のための準備だ。作品展に関して残された作業は、値札の作成と挨拶文などの印刷。値札は出品作全部に付けなければならないが、挨拶文のほうは初日分だけ作ってみて、あとは様子を見ながら手を加えたり印刷したりするつもりでいる。

続「白いリボン」

2011年01月09日 | Weblog
先日観た「白いリボン」という映画の余韻が続いている。今日、子供へのメールのなかでもこの作品のことを紹介した。前にこのブログに書いたこととは違ったものなので、そのメールのなかの映画についての部分を引用し、前回のブログの補足としておく。

***以下、引用***
先週は「白いリボン」という映画を観ました。たいへん面白い作品です。しかし、

(中略)

さて、「白いリボン」ですが、これはドイツの作品です。舞台は1913年の北ドイツの架空の村です。「1913年」「北ドイツ」というだけで、すぐにいくつかのモチーフが思い浮かびます。1913年は第一次世界大戦の前年、北ドイツは封建制が残るプロテスタントの社会です。そして、この作品ではその村の子供たちが主人公なのですが、この時代の子供たちはナチスドイツを支えた大人たちでもあるのです。

その村で、医師が何者かが仕掛けた罠によって落馬するという事件から物語は始まります。その後も、村人が領主の屋敷の納屋で仕事中に、床が抜けて転落死をしたり、領主の幼い息子が誘拐されてリンチを受けたり、火の気のないはずの荘園の納屋が火事になったり、と不可思議な事件が続きます。なんとなく、一連の事件に子供たちが関わっている雰囲気は漂っているのですが、それを証拠付ける決定的なものは何一つありません。村の領主は村人を人とは思っていませんし、自分に直接関係しない限りは村の出来事に興味はないのですが、村の中の異様な雰囲気に耐えられなくなった領主の妻は子供を連れて実家へ戻ってしまいます。村の秩序を守ることを期待されている教会の牧師は自分の子供たちへの抑圧を強め、学校の教師へも子供たちの監視を強めるよう仕向けます。それはあからさまなものではなく、あくまでも窮屈さを感じさせる雰囲気が醸成されるのです。

この作品の監督は作品についてのインタビューのなかでこのようなことを語っています。
「私の映画は、ドイツのファシズムを解説しようとしたわけではありません。追随に走らせる心理的な根を探っているのです。“厳格な教育”のなかのいったい何が、人間の意志を放棄させてしまうのか。そして憎しみを生むのか。イデオロギーの“笛吹き”についていきたいという欲求は、いつでもどこでも起こるものです。惨めさや屈辱、絶望のあるところでは、救済への渇望がふくれあがる。そしてその救世主が右派または左派のイデオロギーなのか、政治的あるいは宗教的な教義なのかは重要なことではないのです。」

作品の舞台は村という小さな単位の社会ですが、子供という、権力という点において弱い立場の人間が、理不尽な抑圧を受けることで、その権威に対して陰湿な抵抗を示すというのは、人間の社会のどこにでも見られる現象ではないかと思います。この作品のなかでは度を過ぎた悪戯という形でその抵抗が表現されていますが、我々の社会全般を俯瞰すれば、テロも様々な犯罪もそうした抵抗なのかもしれません。

以前に「世界が100人の村ならば」というようなタイトルの本が話題になりましたが、封建制下の村という社会構成が明確な共同体を舞台に、「領主」「教会」「おとな」という権威が「子供」という被支配階層を理不尽に抑圧するという構図は、漠然としたものから規則性や法則性を求めて単純化した模式を抽出するという点で似ています。

欧米日という、これまで世界の政治や経済を牽引してきた地域が揃って長期的な低迷の様相を強める一方で、中国をはじめとする規模の大きな新興地域が従来の秩序を脅かすかのような存在に感じられる、或る意味において「不気味な」時代を迎えています。そういうなかで、こうした作品を観ると、これから自分が生活している社会に何が起こるのか、考えさせられます。

断っておきますが、「不気味」というのは既存の秩序が脅威に晒されているという雰囲気を感じるという点で「不気味」なのであって、不景気や中国が「不気味」ということではありません。物事は常に変化をしています。「栄枯盛衰」という言葉がありますが、始めがあれば終わりがあります。栄えれば、いつかは衰退します。秩序はその場にいるものにとっての秩序であり、永遠普遍というようなものは何一つ無いと私は思っています。

***以上、引用***

健康診断考

2011年01月08日 | Weblog
先月受けた人間ドックの結果が届いた。いくつかの要経過観察項目があるもの、二次検査が必要なことはなく、経過観察項目も毎年指摘されていることなので、総じて想定の範囲内の結果と言える。

検査結果を眺めていて思うのは、健康診断を定期的に受けることにどの程度の意義があるかということだ。かつての職場の同僚で、健康診断を一切受けないという人がいた。人は必ず死ぬのだから、健康など気にしてもしょうがない、というのである。それはひとつの考え方だろう。しかし、日本では労働安全衛生法に基づき、事業者は「期間の定めのない契約により使用されるもの」つまり所謂「正社員」に対し健康診断を受けさせる義務を負っている。健康診断を受けない、という駄々をこねると人事管理部門の人達が困ることになる。健康診断にまつわる事故の類が皆無というわけではないだろうが、それで具体的な不都合があるわけではないのだから、受けないと我を通すのはいかがなものかと思い、そのように話したりもしたが、おそらく彼は今も受けていないだろう。ちなみに、この人は過去に交通事故で臨死体験をしている。お花畑のようなところにいて、そこがとても快適であったとのことだ。私なら、快適な場所から離れたりはしないだろう。

それで結果の話だが、自分の行動や意識でどうこうなるものというのは、それほど無いように思う。体重は食生活や運動量を調整することで管理できるかもしれないが、それは各自の生活様式というものがあるだろうから、年齢を重ねれば重ねるほど、管理は困難になるのが自然なのではないだろうか。そうなると、健康診断は数値が年々悪化していくのを眺めるだけのためのものということになってしまう。「体重を落としましょう」とか「運動をしましょう」と言うのは易しいが、食生活を変えるというのは容易なことではないだろう。体重を落としたところで、それが即、健康ということではなく、不健康のリスクが低下したというだけのことだろう。それでも、いつか必ず死が訪れるのである。医療機関としてはあからさまには言いにくいかもしれないが、漠然と「健康」を訴えるよりも、苦痛なく旅立つことのできる身体作りということに、もっと力点を置いた検査や指導を指向したほうが現実的なのではないだろうか。

私は酒もタバコも嗜まないのだが、甘いものは好きだ。時に過剰に摂取しているのではないかと感じることもないわけではない。しかし、これまでのところ標準体重を維持している。自分で食事を作るときは勿論のこと、外食のときも、野菜を多めにすることを意識している。食事を作ればわかることだが、肉を調理したときの調理器具や台所の汚れ方というのは、そうでないときよりも激しい。特に気になるのは脂肪分に由来すると思われるべたつきだ。それを目の当たりにすれば、自分の体内が目の前の鍋のようにべたべたすることが自然に想像されて、そういうものを口にする意欲が減退する。元来、肉は好きなのだが、そんなわけで自炊をするようになってから肉類の摂取は顕著に減少しているのではないかと思う。

食事に限ったことではないが、自分でやってみる、という経験によって多くのことを学ぶことができるものだ。今の自分の身体は半年前に食べたもので作られている、というようなことを耳にしたことがある。食の安全ということが話題になるようになって久しいが、自分が口にするものを自分で作ってみれば、インスタント食品だの冷凍食品だの工場で作られるようなものは、どのような食材がどのように調理されているのかわからないので食べたくないし、ファミレスの食も気持ちが悪い。ましてやファーストフードなど言わんをや。理想は作り手がどのような人間なのかわかっている食事。自分が作る分には、食材の選択基準も承知しているから間違いは少ない。外食となると、作り手が見える、というのはなかなか無い。有名店であることは何の意味も無いし、ナントカの星の数など糞食らえだし、食というものについての考え方を共有できない人の話など端から信用できない。

いつものように話は大きく脱線したが、結局、自分でできる健康管理は食の管理以外に無いのではないか。食は世界観や人生観の反映でもあるから、それを変えるというのは容易でない。ならば、自分で健康管理など、そもそも無理なのではないか。それなら、健康診断は何のためなのだろうか。話はここに戻る。

行列安堵

2011年01月07日 | Weblog
ちょっと考えていることがあって、住民登録地の警察へ行って用を済ませた後、新宿の世界堂に寄ってから出勤した。

平日の昼間でも世界堂のレジには長い行列ができる。画材への需要がそれほど強いのか、他に用の足りる店がないのか。ここの行列に並んでいつも感心するのは、客の平均年齢が一見して若いことと、行列に苛々感が無いことだ。店員と客のやり取りを聞くともなしに聞いていると、客の態度が総じて良い。混雑していても秩序が守られているというのが文明の証だ。近頃は殺伐とした風景を目の当たりにすることが多くなったような気がしているので、このような行列に並んでいると、なんとなくほっとする。

江戸の冬

2011年01月06日 | Weblog
銀行というところには普段は縁がないのだが、今日は野暮用があって閉店ぎりぎりに駆け込んだ。用が済んでしまうと午後3時という中途半端な時間だったので、出勤まで皇居を散策することにした。

皇居は東御苑が公開されているが、ここは旧江戸城本丸周辺で、大手門、平川門、北桔橋門の3箇所から出入りできる。東京駅周辺で用があるときなどに、時間潰しに近代美術館へ行くときは、大手門から入って平川門へ抜けることが多いのだが、今日は大手門から入り、本丸に至り、そこから大手門へ引き返すという道順だ。ずいぶん前に天守台に登った記憶があるのだが、その記憶に比べると、本丸はかなり広く感じられた。

本丸は中央に芝生の広場がある。青々とした芝生もよいが、周囲に常緑の松が配されているので、枯れて黄金色とまではいかないにしても、薄い黄色の背景が松を引き立てる様子も趣があって良いと思う。本丸の縁は様々な木々や植栽が施されていて、なかには雑木林のようなところもある。周囲を見渡せば、否応なく建設中の高層建築物が目に入るのだが、それでも都心とは思えぬ落着きがある。

天守台に登ってみても、街並は見えない。周囲の建築物に視界が遮られているからだ。かつて、ここから東京湾も江戸の街並も一望のもとにあったのだろう。だからこそ、天守閣は明暦の大火で、町屋から飛来した火の粉によって炎上してしまった。徳川幕府成立後の江戸城普請によって、その負担を強いられた諸大名は経済的に大きく疲弊したというが、今こうして残っている石垣を見るだけでも、たいした仕事だったと思う。

冬至を過ぎたとはいえ、午後4時近くなれば日はいまにも沈まんとするばかりの様子だ。その夕日に照らされた城内の木々は、冬の透き通るような空気のなかでひときわ美しく感じられる。冬の寒さには往生するが、冬の冷たく透き通った空気は好きだ。

ところで、「江戸」というのは入り江の入口という意味のやまとことばだそうだ。そう思って口にしてみれば、響きが心地よい。「東京」などという、どこまでも京の都という中央の権威への執着を感じさせるような、卑しさ溢れる合成語を作り出した維新政府の文化の程度は、日本人としては恥ずかしい限りだ。しかし、そんなことを嘆いていても埒が明かない。在るものは所与のものとして受け容れなければ生活は成り立たない。改善できるものはそのための努力を惜しまず、どうしようもないものは素直に受け容れる。たかだか50年かそこらの人生では、そうするよりほかにどうしょうもないだろう。

新規開拓

2011年01月05日 | Weblog
ここ数年、街中にインド料理屋の姿が目立つようになった気がする。先日、千石カフェを訪れたとき、途中でCurry Worldというインド料理店があるのに気が付いた。その時は、食事の時間帯ではなかったので、そのまま通りすぎたが、今日はcha ba naが休みだったこともあり、木工の帰りに寄ってみた。

店は2人のインド人男性が切り盛りしていた。厨房の人とは話す機会が無かったが、フロア担当の恰幅の良いほうは、ニューデリーの出身だと言っていた。ランチセットのなかからタンドーリチキンとシシケバブの入ったものを選んだ。ときどき貧相なナンを出す店があるのだが、ここのはちゃんとしたものだ。カレーは野菜のカレーにしたが、ごく平均的なものだった。料理に関しては十分満足のいくものだ。

特筆すべきは、フロア担当の男性だろう。見た目が怖い。態度もぶっきらぼうな印象が強い。昔、インドを旅したときに入った、大衆食堂の人達はみんなこんな感じだった。それが私にはたいへん懐かしく、好ましく感じられた。

食べ終わって勘定を払うとき、
「ショクジハ、ドウデシタ?」
と尋ねられたので、素直に
「とてもおいしかったよ」
というと、大きな笑顔になった。その最後の笑顔が、落語のオチのようにも感じられて、気分良く店を後にすることができた。

個人的な偏見であることは承知しているが、私は、外国人が切り盛りしている店で、その外国人の愛想がやたらに良いところとか、日本語が妙に達者なところというのは、料理のほうの信頼性に問題があるような気がしている。平日の昼時で、当然に近隣の会社や商店で働いている人達が昼食に訪れるはずなのに、日本語があまり通じないトルコ料理店とか、繁華街にあるのに日本語が通じない店員のいる韓国料理店とか、メニューの料理を一生懸命説明してくれるのだけれど、その説明が理解不能なインド料理店のようなところのほうが、味が確かな印象がある。今日のCurry Worldも、抜きん出て旨いというわけではないが、どちらかといえば後者の範疇に入る店だと感じた。少し足繁く訪れてみて、店の人と会話ができるようになったら、何か面白いことがあるかもしれないと、少し期待している。

「白いリボン(原題:Das Weisse Band)」

2011年01月04日 | Weblog
作品が始まってほどなくして、フィリップ・クローデルの小説「ブロデックの報告書」を思い出した。どちらも、或る村での出来事が、その共同体の部外者の目を通して語られている。この作品のほうは、その語り手が教師であるというところが鍵だろう。教師にとって最も身近なのは自分の教え子である子供たちだ。村の子供たちの姿を通して、村の社会を活写すると同時に、子供は社会の柵から相対的に距離がある分、人の本性に近いところでの行動や情動を表現しているのだろう。

舞台は1913年の北ドイツ内陸の村。封建領主が村の約半分の雇用を賄っている。領主に直接雇用されない人々も、領主の農場や屋敷で働く人々を対象にした商売で生計を立てているので、実質的には村全体が領主の家庭のようなものだ。つまり、領主はこの村という「世界」のなかでの実質最大の権威といえる。村の教会はプロテスタントだ。カトリックにとってのローマ教皇のような絶対権威が無い代わりに、それぞれの地域に根ざした独自の「教会経営」が求められる。この村で領主が実質的に絶対的権威であれば、この村の牧師もキリスト教という一見普遍性があるかのような看板を掲げながらも、実体としてはその地元の権威に寄り添わないことには生活が成り立たない。

生活に平穏や安定を求めるなら、秩序が必要なのである。そして、我々の生活が本来的に不確実性のなかにある限り、人々はそこに生きる不安を払拭すべく秩序を希求するのである。それは政治という明確な形式でもあり、宗教という情緒的なものでもある。いずれにしても便宜的なものだ。普遍性がないから永続しない。矛盾だらけだから、別の政治体制や宗教と対立せざるを得ない。人間の歴史が血塗られたものであるのは当然のことなのである。しかし、秩序というものは、それが適切なものであろうとなかろうと、社会の認知を受け、守られなければ、秩序として機能しない。それをいかに円滑に機能させるかというところに、その社会の文明や文化の性能が問われるのである。

この作品で、村の社会は人間の社会そのものを模しているのだろう。村の文明や文化を試しているのは子供たちの眼だ。領主は村という共同体に対して責任を負うているかのようなふりをしているが、その関心はもっぱら自分の欲望にしかない。牧師は外見を取り繕うことで自身の権威を正当化して見せることにしか関心がない。領民は自分の生活を維持することで精一杯だ。それでも、人々は村の秩序に従うことで、自らの生活を守ろうとするのである。子供たちの生活は親たちによって守られているので、自ら積極的にこの秩序に参加する動機に乏しい。「岡目八目」というが、距離を置けば、当事者には見えないものも見えたりするものだ。無邪気な好奇心と秩序の抑圧に対する反抗とが入り混じり、多少なりとも知恵と能力がある子供たちは、この秩序という共同幻想に挑戦を試みるものなのだろう。

作品を構成するひとつひとつの事件は、そうした挑戦が具現化したものだ。事件が起こるたびに、大人たちは暴力的な抑圧で、破綻しかけた幻想を取り繕う。小さな村のなかの、大人と子供の間のことなら、それでも秩序は守られるのだろう。しかし、より大きな世界で、その大きな世界を守っている秩序への挑戦が行われたら何事が起こるだろうか。それが、この作品のなかでは1914年のサラエボ事件となっている。そして、その後に何が起こったのか、現代に生きる我々は知っている。

正月らしさ

2011年01月03日 | Weblog
元旦は夜しか外出せず、昨日は終日引き篭もっていたので、今日は少し出かけてみようと外に出た。しかし、あまりに人も車も往来が活発なので、近所をぐるっと一回りしただけで帰宅してしまった。

今日は住処周辺の雑踏を抜けて千石方面へ足を伸ばしてみた。巣鴨駅周辺を過ぎ山手線の内側へ入ると、まだ営業していない店舗が多くなる。白山通りを南下して、以前から気になっていた千石カフェを訪ねてみる。すると営業していた。先客はパソコンを開いている女性客、カレーを食べている二人連れの計3名。それほど広くない店内はカレーの香りに満ちていた。今日も遅い時間に起床して中途半端な時間にきしめんを食べただけだったので、よほどカレーライスを注文しようかと心が揺れたのだが、初めての店ではブレンドコーヒーと自家製ケーキがあればケーキということに決めているので、千石ブレンドとブラウニーケーキをいただく。注文を受けてから豆を挽くのは当然として、味のほうは万人受けする無難なものだと思う。やや香りが強めに出ているかもしれない。ベースはケニアか。スウィーツは「ブラウニー」ではなく、「ブラウニーケーキ」であるところがミソ。ブラウニーより軽めに焼けている。ちゃんと皿がチョコクリームと蜂蜜でデコレーションされている。トッピングのミントの葉が新鮮な上に量も多め。これは飾りだと思って残してしまう人も多いかもしれないが、ブラウニーのような濃い目の味のケーキの後に頂くことでケーキを味わうという作業が完結する。単なる飾りや口直しではなく、ケーキの一部なのである。残すべきではない。場所も便利なので、これならいくらでも客が入るだろうと納得する。

カフェを出て白山通りの向かいに和菓子屋が目に入ったので、そこに向かう。この店は栄泉堂岡埜という。創業は明治20年頃だそうだ。店の名前には駕籠町と冠されている。現在はこの店の位置するあたりは文京区本駒込だが昭和41年までは駕籠町という名前だった。

何故、駕籠町かというと、話は元禄時代へ遡る。当時、このあたりは巣鴨村と呼ばれていたそうだ。元禄10年(1697年)に幕府の御駕籠の者51名にこのあたりの土地が与えられた。御駕籠と「御」が付くことから想像が付くが、ただの駕籠かきではない。将軍専属の御駕籠係である。それで巣鴨御駕籠町という名前になったという。明治2年に「御」が取れた。将軍がいなくなったのだから、という極めて官僚的理由だ。明治5年に旧加賀藩中屋敷の前田邸が合併された。この前後、六義園が岩崎弥太郎に払い下げになったときに、この界隈も併せて岩崎家へ売却された。明治24年には小石川駕籠町と町名が改められ、大正11年には住宅地として開放された。六義園は岩崎邸として整備され、昭和13年に東京市に寄贈されて今日の都立庭園に至るが、その周辺は三菱財閥によって屋敷街として区画整理され、当時の政財界要人が居住したという。駕籠町は現在の文京区本駒込6丁目のほぼ全域と本駒込2丁目の都立小石川高校、駕籠町小学校、およびその南東の一画にあたる。

加賀藩といえば、東京大学の本郷キャンパスが加賀藩上屋敷跡であることは有名だが、中屋敷が本駒込で、下屋敷が現在の板橋あたりであったことも知られているだろうか。板橋区には加賀町という地名があることから、地元の人々はさすがに知っているだろうが、本郷、本駒込、板橋といずれも中山道沿いにある。本郷から板橋にかけては、まるごと加賀藩領のような感がなきにしもあらずだ。「高津の富」という落語のなかで、主人公の爺さんが宿屋の亭主に大風呂敷を広げるのだが、そのなかで「屋敷の門をくぐってから家に着くまで駕籠で3日かかる」というくだりがある。屋敷のなかに「表の宿、中の宿、奥の宿と宿場町が3つあって、それぞれに繁盛してます」と語るのだが、荒唐無稽な表現とは必ずしも言えないだろう。本郷から板橋まで歩いても3日はかからないにしても、封建時代の権力者の屋敷というのは、今とは比較にならない広大なものであったことは確かだ。

この本駒込6丁目は、私が学生時代に家庭教師をしていたお宅があった場所でもある。当時の記憶を頼りに歩いてみたら、当時の姿のままで、そのお宅があった。人が住んでいる気配はないが、手入れはされているようで、荒れてはいない。表札も当時のままだ。このお宅は日本橋馬喰町にもお宅があり、当時も本駒込のお宅と日本橋のお宅とを代わる代わるお邪魔していた。屋敷の雰囲気から察するに御商売のほうは順調なのだろう。

大きな屋敷が相続などの関係で家主の死後に分割されて敷地が細分化されるというのはよくあることだが、駕籠町も例外ではないようだ。栄泉堂岡埜の奥さんのお話では、バブル崩壊の頃に様相が一変したのだそうだ。それでも、まだまだ往年の面影は残っているほうではないだろうか。この近くでは染井のあたりにも趣のある住宅街が残っている。

さて、栄泉堂岡埜では栗きんとんと枝豆大福を買った。生協で調達した栗きんとんも、実家で食べた栗きんとんもいまひとつ満足できなかったところに、この店で「自家製栗きんとん」という札が目に入ったので、思わず買ってしまった。住処に戻って頂いてみたら、餡は芋の味が勝っているが、それでもたいへん美味しい栗きんとんだ。これで、なんとなく正月を無事に過ごしたような気分になった。

寝正月

2011年01月02日 | Weblog
別に取り立てて夜更かしをしたわけではないのに、目が覚めたら午後2時を回っていた。確かに、天皇誕生日の前後から体調は良くないのだが、寝込むほど酷くはない。起きだして、食事の仕度をする。

やもめ暮らしでも、正月用に伊達巻、昆布巻き、栗きんとんは生協の宅配で調達しておいた。昨日は夜だけ実家で過ごしたが、そこでも外部調達の伊達巻と栗きんとんに自家製の八つ頭の煮物と黒豆の煮物などを食べてきた。母方の祖母が生きていた頃は御節は殆ど自家製だった。それが少しずつ既製品の占有率が高くなった。子供の頃は偏食が激しくて、せっかくの手料理もあまり口にすることはなかったのだが、今頃になってそういうものが恋しくなる。勝手なものだ。

夜は名古屋にいる親戚から送られてきた味噌煮込うどんを作って食べる。同梱されている出汁味噌だけでもおいしくいただけるのだが、それだけではさすがに芸がないので、自分で出汁を取り、そこに野菜とホタテと牡蠣を加えたものをベースにうどんの汁を作る。味噌煮込は見た目が濃い感じなのだが、そうやって少し手を加えただけで、完食に耐えるものに仕上がる。今日のように寒い日は鍋や煮込みに限る。身体の芯から温まり、なんともいえない良い気分になる。

食事の後、抹茶を点てた。普段はコーヒーばかり飲んでいるので、抹茶はなかなか減らない。昨日も茶を点てた。夏に一保堂で買った茶なので、この機に一気に使ってしまい、新しい茶を調達するつもりだ。あまり頻繁に茶を点てるということがないので、まだ自分なりの最適な濃さを把握できないでいる。今年はもう少し頻繁に茶を点ててみようかと思っている。

コーヒーのほうは現在マンデリン、ケニア、マラウイという3種類の在庫がある。ケニアは年末近くにハニービーンズに行ったら、たまたま焙煎中で、
「何焼いてんの?」
「ケニア」
「あとどれくらいで焼ける?」
「10分くらいですかね」
というので、焼けるのを待って買ってきた。ケニアは普段は買わない。私には少し上品すぎて、あまり惹かれないのである。一番好きなのはマンデリン。こういう癖の強いのが淹れるのも飲むのも楽しい。

作品展の会場であるFINDというギャラリー・カフェがコーヒー豆の調達先をハニービーンズに変更したそうだ。ストレートは週替わりなのだそうで、ちょうど私の作品展期間中はマンデリンだという。私の作品展の週だからそうなったのではなく、単なる偶然だが、こういうちょっとしたことが嬉しかったりする。