安倍首相の靖国神社参拝は、国際社会に対して、極めて重要な論点を提示しています。中韓が参拝を批判する主要な原因は、A級戦犯が合祀されていることにありますが、そろそろ、第二次世界大戦後における軍事裁判の開設が適切であったのか、否か、再考してみる時期に差し掛かっているように思えます。
実のところ、裁判とは、紛争を平和的に解決する手段の一つですので、戦後、つまり、国家間の利害の衝突が軍事力によって決着が付けられた後の裁判というものは、本来の意義からは外れています。力の衝突を事前に防ぐという意味では、平和には全く役立っていないのです。一方、戦後の裁判が有効であるとすれば、それは、国境侵犯、禁止兵器の使用、民間人殺戮…など、戦時において行われた軍隊による戦争法や国際法に対する違反行為や他国に対する加害行為を訴追し、罰を与えることです。そして、もし、戦後の軍事裁判において、違法行為が裁かれるならば、それは、戦争の勝敗に関わらず、全ての当事国に対して公平な裁きが下される必要があるのです。これらの点に鑑みて第二次世界大戦の軍事裁判を振り返ってみますと、軍事裁判の導入が、たとえ国際社会において法の支配を確立させるための画期的な試みであったとしても、通常の司法裁判というよりも、勝者が敗者を一方的に裁く”政治裁判”の色合いが濃いものであったことは否めません。第二次世界大戦後の軍事裁判が”政治裁判”であったが故に、中韓は、自らの違法行為は棚に上げて、日本国を永遠の戦犯国と見なし、講和条約発効後も様々な内政干渉や要求を突き付けてくるようにもなったのです。しかも、尖閣諸島や竹島問題については、両国とも、決して平和的な司法解決を言い出さず、むしろ、軍事力による現状変更をよしとしているのです。
第二次世界大戦は、講和条約の発効を以って完全に終結したとみなし、国際社会は、大戦後の軍事裁判の問題点は、歴史の教訓とすべきです。法の支配の下で、司法が、事前にあって、真に国際紛争の平和的な解決手段として機能し、事後にあっても、公平な裁判が実現する日を目指して。
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実のところ、裁判とは、紛争を平和的に解決する手段の一つですので、戦後、つまり、国家間の利害の衝突が軍事力によって決着が付けられた後の裁判というものは、本来の意義からは外れています。力の衝突を事前に防ぐという意味では、平和には全く役立っていないのです。一方、戦後の裁判が有効であるとすれば、それは、国境侵犯、禁止兵器の使用、民間人殺戮…など、戦時において行われた軍隊による戦争法や国際法に対する違反行為や他国に対する加害行為を訴追し、罰を与えることです。そして、もし、戦後の軍事裁判において、違法行為が裁かれるならば、それは、戦争の勝敗に関わらず、全ての当事国に対して公平な裁きが下される必要があるのです。これらの点に鑑みて第二次世界大戦の軍事裁判を振り返ってみますと、軍事裁判の導入が、たとえ国際社会において法の支配を確立させるための画期的な試みであったとしても、通常の司法裁判というよりも、勝者が敗者を一方的に裁く”政治裁判”の色合いが濃いものであったことは否めません。第二次世界大戦後の軍事裁判が”政治裁判”であったが故に、中韓は、自らの違法行為は棚に上げて、日本国を永遠の戦犯国と見なし、講和条約発効後も様々な内政干渉や要求を突き付けてくるようにもなったのです。しかも、尖閣諸島や竹島問題については、両国とも、決して平和的な司法解決を言い出さず、むしろ、軍事力による現状変更をよしとしているのです。
第二次世界大戦は、講和条約の発効を以って完全に終結したとみなし、国際社会は、大戦後の軍事裁判の問題点は、歴史の教訓とすべきです。法の支配の下で、司法が、事前にあって、真に国際紛争の平和的な解決手段として機能し、事後にあっても、公平な裁判が実現する日を目指して。
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