保有、非保有国双方が協力を=核兵器禁止条約めぐり安倍首相
本日8月6日は、人類史上、初めて原子爆弾が投下された日として記憶されております。被爆地である広島、並びに、長崎の惨状を知る者は、誰もが二度と繰り返してはならない悲劇としてその犠牲の重みを心に刻みます。
そしてこの日がめぐってくる度に、マスメディアからインタヴューを受けた被爆者の方々は、口を揃えて核兵器廃絶を唱え、核なき平和な世界の実現を訴えます。核反対のスタンスは、しばしば政府批判に及ぶことも珍しくはないのです。特に今年は核兵器禁止条約が成立したこともあり、同条約への参加を見送った日本国政府に対する風当たりは強いようです。しかしながら、核兵器の保有や核の傘は、絶対悪なのでしょうか。
広島と長崎において、無辜の人々の命が被曝によって無残にも奪われたことは、厳粛なる歴史の事実です。それ故に、核の廃絶こそが、平和への唯一の道と固く信じるのは理解に難くありません。核が存在しなければ被爆もあり得ず、この因果関係にあっては、核廃絶は被爆をなくす一つの道ではあります。その一方で、核保有や核の傘が、核保有国、とりわけ、無法国家の核に対する抑止力の一つであることも、まぎれもない現実です。国際社会では、NPT体制が成立しつつ、核保有国の中には、中国やロシアのような無法国家もある一方で、非核保有国でありながら、北朝鮮は、核開発に邁進しています。憲法第9条と同様に、一方的な核放棄は、暴力主義的な核保有国に対する抑止力を失わせ、国民の命を危険に晒します。
被爆者の方々の心情は十分に尊重されるべきであり、その核兵器を憎む心には偽りはないのでしょう。しかしながら、被爆者の方々には、核が、その抑止力によって現在に生きる人々の命をも守っている現状についても、思い至っていただきたいと思うのです。核を憎むばかりに核の抑止力をも捨て去り、再度、被爆国となるのでは、広島、並びに、長崎にて尊い命をなくされた方々も、“それでよし”とは申されないのではないでしょうか。
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広島と長崎において、無辜の人々の命が被曝によって無残にも奪われたことは、厳粛なる歴史の事実です。それ故に、核の廃絶こそが、平和への唯一の道と固く信じるのは理解に難くありません。核が存在しなければ被爆もあり得ず、この因果関係にあっては、核廃絶は被爆をなくす一つの道ではあります。その一方で、核保有や核の傘が、核保有国、とりわけ、無法国家の核に対する抑止力の一つであることも、まぎれもない現実です。国際社会では、NPT体制が成立しつつ、核保有国の中には、中国やロシアのような無法国家もある一方で、非核保有国でありながら、北朝鮮は、核開発に邁進しています。憲法第9条と同様に、一方的な核放棄は、暴力主義的な核保有国に対する抑止力を失わせ、国民の命を危険に晒します。
被爆者の方々の心情は十分に尊重されるべきであり、その核兵器を憎む心には偽りはないのでしょう。しかしながら、被爆者の方々には、核が、その抑止力によって現在に生きる人々の命をも守っている現状についても、思い至っていただきたいと思うのです。核を憎むばかりに核の抑止力をも捨て去り、再度、被爆国となるのでは、広島、並びに、長崎にて尊い命をなくされた方々も、“それでよし”とは申されないのではないでしょうか。
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