らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

F.J.ハイドン 弦楽四重奏曲 ト長調 Op77-1「挨拶」~その2

2008年05月08日 22時14分27秒 | クァルテット
 ハイドンは、1790年に30年間務めたエステルハージ家の楽長を辞してから1791年、94年にロンドンへ行きました。その理由は、ロンドンの優秀なオーケストラに「ザロモン交響曲」を演奏してもらい金銭と名声を得るためです。実際その活動は大成功をおさめました。ハイドンは、滞在期間中に同じくロンドンに活躍の場を求めて渡り大成功したヘンデルの「メサイヤ」の再演にも立ち会う事が出来て、自分も大規模なオラトリオの作曲をしたいと思うようになりました。

 帰国後、ザロモンから提供されたテキストでのオラトリオの作曲を依頼されます。1795年に作曲にとりかかり、1798年初めに完成したのが「天地創造」です。1798年4月29日にウィーンのシュヴァルツェンベルク宮にて初演が行われ、ハイドン自身の指揮、サリエリのピアノ、その他一流の音楽家により大成功をおさめたのでした。「天地創造」の作曲をする間、ハイドンはかつてないほどに信仰深くなり、完成されるだろう作品のために毎日ひざまずき、神に祈りを捧げました。文字通り全精力をつぎ込んで作曲したために彼の精神も肉体も衰えを隠せない状態になってしまいました。

 疲労困憊の中、ロプコヴィツ公爵のために新たな弦楽四重奏曲集を作曲し始めます。私の個人的な憶測を書かせてもらえばハイドンは弦楽四重奏曲を作曲する事が大変好きなのではなかったか?もしくは弦楽四重奏曲を書いて、自分の仲間達の喜ぶ顔が楽しみだったのではないかという想像が生まれてきます。ハイドンの弦楽四重奏曲は自身の実験の場でもあったろうし、演奏家を驚かせようという彼特有のユーモアにあふれているからです。そうでなくてはこの作曲活動は何故行ったか?の答えは出て来ない気がします。なぜならハイドンは弦楽四重奏の分野では既に作品76の6曲やその他の作曲活動では天に昇るくらいの名声と富を得ていたのですから。

 この作品77も当初は6曲の曲集の予定で書かれ始めています。しかしこの作品集は2曲(作品77-1・77-2)で終えてしまっています。「天地創造」のコンセプトをわかりやすくしたオラトリオの作曲をし始めたからです。その際ハイドンが、気に入らないテキストをおしつけられてしまいましたが、その曲は1801年に完成されて、初演も大成功をおさめました。オラトリオ「四季」です。「天地創造」は神による厳粛なオラトリオであり、「四季」は、世俗的な作りになっています(曲の目的は神への感謝)。「四季」はタイトル通り春、夏、秋、冬の場面での音楽になっていて、一般的にもわかりやすく(親しみやすく)人気も高かったようです。この作曲のために限界まで精神も肉体も衰えてしまったハイドンは以後、作曲活動はほとんど出来ませんでした。あしたのジョーのように白い灰になってしまい1809年になくなるまで余生を過ごします。1806年に弟のミヒャエルが亡くなるなど彼の人生のエンディングは寂しいものになっていきました。

 このオラトリオ「四季」を私は音大学生時代に音大の学生オケで演奏した事があります。ハイドン音楽研究家はそろって「天地創造」と「四季」は彼の2大名作と言います。ハイドンはこの2大人気曲のどちらが良い曲だ?と皇帝に問われ「天地創造」だと言ったそうです。それならば弦楽四重奏を好む人のわがままを言わせてもらえば、この作曲のためにハイドンの創造力を使い枯れさせたという事を考えると、この曲の作曲より彼の好きだった弦楽四重奏曲集作品77の全6曲を完成させてあげたかったと思うのです。

 参考文献~井上和雄著「弦楽四重奏が語るその生涯・ハイドンロマンの軌跡」

 つづく。

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