つづき。
ハイドンはオラトリオ「四季」を作曲した前後から精神的にも肉体的にも衰えてきます。ハイドンは世間からの自分や自分の作品に対する賛辞がある裏で、自分が作曲するのにどれほどの苦しみや努力を必要とするかと嘆き始めて、作曲をする事が最大の苦痛だと思うようになってしまったのです。そして、1801年6月に遺書を作成しました。
1809年に亡くなるまで、余生を送る事になります。だんだんと精神的にも追い込まれていったハイドンは、とうとう1806年に医者にクラヴィアを弾く事を止められてしまいます。その時ハイドンが医者に「お聞きのように、もう駄目なのです。8年前はこうではなかったのです。しかし「四季」のせいで、こういう情けないことになったのです。私は断じてあの曲を書くべきではなかった!あれを書く時、無理をしすぎました」と答えたと言われてます。
ナポレオン率いるフランス軍との戦争のなか、1809年5月31日亡くなってしまいます。そして6月15日にウィーン市民により盛大に追悼式が行われて、モーツァルトのレクイエムでおくられました。
ハイドンの晩年について書いてみました。色々調べたり、昔読んだ本を読み返したりしながら書いたのですが、そんな晩年のハイドンを思いながらあらためて「弦楽四重奏曲 ト長調 Op77-1「挨拶」を聴くと、その音楽の風景が全然違うものに思えてきます。曲は終始明るい響きに包まれ進行していくのですが、何か憂いを帯びてくる気がします。ハイドンの人を楽しませようという人間性のようなものに感動します。神に包まれているような大きな優しさとでも言ったら良いでしょうか?
その作品を演奏出来る喜びをいっそう感じて練習していこうと思ったのでした。
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ハイドンはオラトリオ「四季」を作曲した前後から精神的にも肉体的にも衰えてきます。ハイドンは世間からの自分や自分の作品に対する賛辞がある裏で、自分が作曲するのにどれほどの苦しみや努力を必要とするかと嘆き始めて、作曲をする事が最大の苦痛だと思うようになってしまったのです。そして、1801年6月に遺書を作成しました。
1809年に亡くなるまで、余生を送る事になります。だんだんと精神的にも追い込まれていったハイドンは、とうとう1806年に医者にクラヴィアを弾く事を止められてしまいます。その時ハイドンが医者に「お聞きのように、もう駄目なのです。8年前はこうではなかったのです。しかし「四季」のせいで、こういう情けないことになったのです。私は断じてあの曲を書くべきではなかった!あれを書く時、無理をしすぎました」と答えたと言われてます。
ナポレオン率いるフランス軍との戦争のなか、1809年5月31日亡くなってしまいます。そして6月15日にウィーン市民により盛大に追悼式が行われて、モーツァルトのレクイエムでおくられました。
ハイドンの晩年について書いてみました。色々調べたり、昔読んだ本を読み返したりしながら書いたのですが、そんな晩年のハイドンを思いながらあらためて「弦楽四重奏曲 ト長調 Op77-1「挨拶」を聴くと、その音楽の風景が全然違うものに思えてきます。曲は終始明るい響きに包まれ進行していくのですが、何か憂いを帯びてくる気がします。ハイドンの人を楽しませようという人間性のようなものに感動します。神に包まれているような大きな優しさとでも言ったら良いでしょうか?
その作品を演奏出来る喜びをいっそう感じて練習していこうと思ったのでした。
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