昨日の続きです。
昨日の記事
金山町 Vol.1
金山町の町役場の周辺は、石造りの大堰と呼ばれる農業用水路には丸々と太った錦鯉が放流されていて、町民に愛されているようです。全国疎水百選認定。
金山大堰と呼ばれる所に説明付きの立て看板がありました。
立て看板の文
「金山大堰は、いつ誰の手によって開削されたものなのか判明していないが、丹与惣左エ門が金山城を治めていた戦国時代の末期天正(1580)年頃開けた多くの集落がそれぞれ水田を耕すにつれて必然的に作られ、その後多くの人々の力によって末端に延長されていったものだろう。 このようにして、最初は城下集落の農業用として、次いで近世の宿場集落の農業及び生活用水として文字通り金山の大動脈とも言うべき集落の中心を流れ、命の水として利用されてきたのである。 明和四(1767)年の朴山松田家文書「覚」からも当時の水利権調整が維持されていることが伺える。こうした先人達の努力が積み重ねられ、守られてきた遺産を大切にし、自然との調和、町並みと流水のバランス等を考慮し、昭和五十二年度より七ヶ月にわたり金山大堰の改修工事が施工されたのである。全長約二粁五百米、総工費二億三千五百万円を投じ、いまや新しい装いのもとに再び、ふる里として人々に親しまれている。 平成七年八月 金山町」
きれいな水が緩やかに流れています。音を聞いているだけでも安らぎますよ。
さらにつづく・・・・。
昨日の記事
金山町 Vol.1
金山町の町役場の周辺は、石造りの大堰と呼ばれる農業用水路には丸々と太った錦鯉が放流されていて、町民に愛されているようです。全国疎水百選認定。
金山大堰と呼ばれる所に説明付きの立て看板がありました。
立て看板の文
「金山大堰は、いつ誰の手によって開削されたものなのか判明していないが、丹与惣左エ門が金山城を治めていた戦国時代の末期天正(1580)年頃開けた多くの集落がそれぞれ水田を耕すにつれて必然的に作られ、その後多くの人々の力によって末端に延長されていったものだろう。 このようにして、最初は城下集落の農業用として、次いで近世の宿場集落の農業及び生活用水として文字通り金山の大動脈とも言うべき集落の中心を流れ、命の水として利用されてきたのである。 明和四(1767)年の朴山松田家文書「覚」からも当時の水利権調整が維持されていることが伺える。こうした先人達の努力が積み重ねられ、守られてきた遺産を大切にし、自然との調和、町並みと流水のバランス等を考慮し、昭和五十二年度より七ヶ月にわたり金山大堰の改修工事が施工されたのである。全長約二粁五百米、総工費二億三千五百万円を投じ、いまや新しい装いのもとに再び、ふる里として人々に親しまれている。 平成七年八月 金山町」
きれいな水が緩やかに流れています。音を聞いているだけでも安らぎますよ。
さらにつづく・・・・。