今日からカテゴリー「大江町~山形県」を大江町と山形県に分けました。
ガソリン不足により皆様の生活が逼迫しているのが現状です。ガソリンを手に入れるのに何時間も違法駐車したり、その列に車が飛び込んだり、暖をとるために車の中で一酸化中毒になったり・・・・。毎日毎日新しいニュースが流れてきています。
私はあの地震以来、ぴたりと車に乗るのを止めています。1回だけ山形Qの練習のために車を出しましたが・・・。買い物なども自転車を持たないので、徒歩しかありません。もう8年も住んでいる大江町内を結構歩きました。普段は車で移動しているので、知っているようで知らなかったお店を見つけたり、地形を楽しんだり、史跡を見つけたり・・・・・・。
家の近所~十三区の外れに大江町教育委員会が建てた説明書きの立て札が・・・・。
立て札の文(写真)
「元和8年(1622)、山形の最上氏が改易になると、左沢に鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次が1万2千石で入り、左沢藩が成立しました。 直次は左沢楯山城を廃城にして、新たに南に漆川(月布川)が流れ、北と東は深い谷になっている小漆川(市の沢川)に囲まれた台地に城を築いて本拠地としました。 城は東西60間(約110m)、南北40間(約72m)の本丸、東西40間、南北35間の二の丸などからなっていたと考えられます。本丸の北側には道路があり、武家屋敷となっていました。台地の北東端に鬼門守護と領内鎮護の目的神明神社が祀られました。
直次は小漆川を挟んで東に開けた平地に、道路を開削し、道路に沿って屋敷割りをして城下町をつくりました。 城の近くに、南は米沢の往来に、北は六十里越街道に繋がる通りをつくり主要道路としました。最上川の川港から南に伸びる原町通りをつくり、寒河江や山形からの入り口にしました。 また、この二つの南北につらなる町を結ぶ東西の道路を開きました。これが内町通りと横町通りです。城と城下町の行き来は、急な坂道を小漆川まで下りて、橋を渡らなければなりませんでした。現在のように、内町から真っ直ぐな道路が切られたのは、明治34年のことです。 直次は、これら新開の地に、楯山城の麓で川港に近い元屋敷と呼ばれるところに住んでいた商工業者を移住させて町としました。
また、神社・仏閣の配置にも心を配りました。楯山城の山中に鎮座していた八幡神社を、参拝しやすいように城下北端の前田に遷座し、城下のほぼ中央から参拝路を開きました。八幡小路と呼ばれている通りです。 さらに楯山城の麓にあった寺院を町の要所に移しました。城北西の巨海院、城下北端の実相院、原町通りの称念寺などです。このようにして、左沢の町並みの基本的な形が作られたのです。
直次が寛永8年(1631)に跡継ぎのないまま早死にしたので、左沢藩は取りつぶされました。左沢小漆川城は、慶安元年(1648)に取り壊されましたが、大手門は巨海院に移され今も残っています。 平成21年3月」
~~~~~~~~~~~
土地に歴史ありですね。
自分の住んでいる土地のすぐそばに江戸時代にお城があった事に吃驚しました。
藩主の酒井直次(1596・慶長元年~1630・寛永7年**前述のように1631年とする説もあり)は、徳川家康に仕えた酒井忠次(1527・大永7年~1596・慶長元年)の孫で、最上義俊(1605・慶長10年~1632・寛永8年)が改易させられたのに伴い、出羽庄内藩13万8千石の藩主となった酒井忠勝(1594・文禄3年~1647・正保4年)の弟。
左沢藩は残念ながら、たった9年でお取りつぶしになったのにもかかわらず、たった9年で今の町並みをほとんど完成させていた事を知り、ますます地元の歴史に興味が湧いたところです。ちなみに墓所は巨海院にあるそうです。
ガソリン不足により皆様の生活が逼迫しているのが現状です。ガソリンを手に入れるのに何時間も違法駐車したり、その列に車が飛び込んだり、暖をとるために車の中で一酸化中毒になったり・・・・。毎日毎日新しいニュースが流れてきています。
私はあの地震以来、ぴたりと車に乗るのを止めています。1回だけ山形Qの練習のために車を出しましたが・・・。買い物なども自転車を持たないので、徒歩しかありません。もう8年も住んでいる大江町内を結構歩きました。普段は車で移動しているので、知っているようで知らなかったお店を見つけたり、地形を楽しんだり、史跡を見つけたり・・・・・・。
家の近所~十三区の外れに大江町教育委員会が建てた説明書きの立て札が・・・・。
立て札の文(写真)
「元和8年(1622)、山形の最上氏が改易になると、左沢に鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次が1万2千石で入り、左沢藩が成立しました。 直次は左沢楯山城を廃城にして、新たに南に漆川(月布川)が流れ、北と東は深い谷になっている小漆川(市の沢川)に囲まれた台地に城を築いて本拠地としました。 城は東西60間(約110m)、南北40間(約72m)の本丸、東西40間、南北35間の二の丸などからなっていたと考えられます。本丸の北側には道路があり、武家屋敷となっていました。台地の北東端に鬼門守護と領内鎮護の目的神明神社が祀られました。
直次は小漆川を挟んで東に開けた平地に、道路を開削し、道路に沿って屋敷割りをして城下町をつくりました。 城の近くに、南は米沢の往来に、北は六十里越街道に繋がる通りをつくり主要道路としました。最上川の川港から南に伸びる原町通りをつくり、寒河江や山形からの入り口にしました。 また、この二つの南北につらなる町を結ぶ東西の道路を開きました。これが内町通りと横町通りです。城と城下町の行き来は、急な坂道を小漆川まで下りて、橋を渡らなければなりませんでした。現在のように、内町から真っ直ぐな道路が切られたのは、明治34年のことです。 直次は、これら新開の地に、楯山城の麓で川港に近い元屋敷と呼ばれるところに住んでいた商工業者を移住させて町としました。
また、神社・仏閣の配置にも心を配りました。楯山城の山中に鎮座していた八幡神社を、参拝しやすいように城下北端の前田に遷座し、城下のほぼ中央から参拝路を開きました。八幡小路と呼ばれている通りです。 さらに楯山城の麓にあった寺院を町の要所に移しました。城北西の巨海院、城下北端の実相院、原町通りの称念寺などです。このようにして、左沢の町並みの基本的な形が作られたのです。
直次が寛永8年(1631)に跡継ぎのないまま早死にしたので、左沢藩は取りつぶされました。左沢小漆川城は、慶安元年(1648)に取り壊されましたが、大手門は巨海院に移され今も残っています。 平成21年3月」
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土地に歴史ありですね。
自分の住んでいる土地のすぐそばに江戸時代にお城があった事に吃驚しました。
藩主の酒井直次(1596・慶長元年~1630・寛永7年**前述のように1631年とする説もあり)は、徳川家康に仕えた酒井忠次(1527・大永7年~1596・慶長元年)の孫で、最上義俊(1605・慶長10年~1632・寛永8年)が改易させられたのに伴い、出羽庄内藩13万8千石の藩主となった酒井忠勝(1594・文禄3年~1647・正保4年)の弟。
左沢藩は残念ながら、たった9年でお取りつぶしになったのにもかかわらず、たった9年で今の町並みをほとんど完成させていた事を知り、ますます地元の歴史に興味が湧いたところです。ちなみに墓所は巨海院にあるそうです。
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