Eddie Shu / I Only Have Eyes For Shu ( 米 Bethlehem BCP 1013 )
レナード・フェザーは過小評価されていたり陽の当たらない所にいるジャズメンを擁護して広く紹介するなど、評論家としてやるべき仕事に熱心だった。
そういうところは、大物頼みだった日本の評論家と言われた人たちとはずいぶん違う。 そのおかげで今私たちがレコードを通して聴くことができるアーティストは
大勢いるわけだが、このエディ・シューもその1人だ。 おそらくは唯一のリーダー作であろうこのレコードのライナーノーツでレナード・フェザーはシューの
驚くべき多才さを詳しく紹介し、正しく評価されない状況を怒りを込めて嘆いている。 このレコードは彼の口添えがあって作られたのかもしれない。
そういう陽の当たらないミュージシャンたちの受け皿としてベツレヘム・レコードが果たした役割も大きかった。 セールスという意味では望み薄の人たちの
レコードをずいぶんたくさん作っていて、凝りに凝ったジャケット装丁などコストをかけることも厭わなかったので、後の時代のレコード・コレクターたちにも
広く愛された。 このレーベルが無かったら、中古レコードのエサ箱の中はずいぶん寂しい様相になっていただろうと思う。
そういう心強い味方をバックにしたシューの演奏はテナー・サックスのワンホーンで、その音色はスタン・ゲッツのようだ。 でもその音は力なく弱々しい。
フレーズはぎこちなく、メロディアスに聴かせるという感じではない。 各曲の演奏時間も短く、あっという間に音楽は鳴り止んでしまう。
ただ、これが本当にシューという人の実力だったのかどうかはよくわからない。 こういうのはこの時代の10インチのレコードに共通する話で、アーティストの
本当の力をどこまで上手く再現できているのかは怪しく、この1枚だけでは判断できない。 だからこそ、もっとたくさんレコードを残して欲しかったと思う。
モノラル時代の10インチは音楽を聴くという観点で言えば不十分なメディアだったけれど、ジャケットのデザインには時間やお金をかける精神的余裕があった時代
だったので秀逸なものが多い。 だから、こういうのは内容うんぬんではなく、まずはその雰囲気を楽しめればそれでいいのだと思う。 シューの場合は
これでしかまともに聴くことはできないのだから、なおさらである。 ジャケットを愛でながら、古い音をそのまま楽しく聴けばそれでいいのだろう。
サブ・タイトルの入れ方、書体、配色、チョットした遊び心、フェザーのこの作品への思いがひしひしと感じられます。
思わず引き込まれました。
昔は良かった、では済まない何かがありますね。
音楽もしっとりとしていて、悪くないですよ。
気になっていても未だに入手出来ていない
アルバムの一つです。
その理由の一つにエディシューはジーンクルーパ
トリオ、カルテットの一員時代が長くチャーリーベンチュラの後任として1953年からジーンクルーパのラストレコーディング1973年まで中抜けはありますが在籍していました。
チャーリーヴェチュラの太く荒々しいトーンに
対してエディシューは真逆で弱弱しく
まるでベニーグッドマン楽団のジーンクルーパの
抜けた後任のデイブタフの様な渋さを持った
プレイヤーだったと思います。
あえてジーンクルーパはMJQやデイブブルーベックなどの流れも汲みエディシューを採用したのでは
等と憶測しております。
マンネリ化防止のためでしょうか、1曲20分近い演奏の中でテナーからトランペットに持ち替えたり、ハーモニカを吹いたりもしていたのでした。
とりとめのない内容になってしまいました。
エディー・シュー、そうだったんですね。レコードがほとんどないので、不遇の人かと思いきや、ちゃんと活躍していたんですね。
レコードがすべてではないんですね。
ジーン・クルーパーはあまりまともに聴くこともないので、もっとちゃんと聴いてみようと思いました。
ありがとうございました。