リフトアップ 石垣島 エコツアー OpenPlace2 

沖縄は石垣島から元報道カメラマンが送る、海・空・山、自然が大好きな方へ! ツアー参加は「リフトアップエコツアー」で検索!

バンナ岳 戦争遺跡群 山中のコンクリ壕

2024年11月01日 | 文化・歴史好き!

23日から米軍と自衛隊の日米統合演習「キーン・ソード25」の一環で八重山でも訓練が行われ、与那国島やここ石垣島の新石垣空港でも、自衛隊のV22オスプレイや、米軍の特殊作戦機MC-130が飛来しました。なかでも米海兵隊の高機動ロケット砲システム兵器「ハイマース」が石垣駐屯地で展開されたのは今回初めてです。訓練は台風により(31日は空港閉鎖)早目に引き上げるようですが、民間空港の使用、与那国駐屯地でのオスプレイの事故など、多くの問題を残したままです。

ここ数年の日米のこのような動きや他国の戦争を危惧してか、沖縄本島だけでなく石垣島へも平和学習や自衛隊基地視察、戦跡巡り等で、ずいぶん訪れる方(案内)が増えました。今まで戦争関係で石垣島まで来る人は、取材や元々興味があるような方達だけで、普通の観光客は「石垣島は戦争無かったんでしょ?」と言う人もいるくらいです。ところが最近はその観光ルートの中に「平和祈念館」に行く、という方も増えているんです。海外から「平和ボケした日本人」なんて言われる事もありますが、皆さん(日本人)の関心がそれだけ戦争を身近(危機)に感じるようになって来たのかも知れません。

20数年前、石垣島(沖縄)に移住してから戦争を身近に感じるようになったオイラは、特に「石垣島の戦争」を勉強しながらライフワーク見たいになってしまったのが、言い方があってるかは分かりませんが「メジャーな戦跡」以外を探す事です。これはもう忘れ去られ、藪に埋もれ分からなくなってしまうような心配はまずない、場所がハッキリしてて何なら案内板まで設置されているような戦跡ではなく、その真逆の戦跡を探してGPSで地図に落とし込む、と言う作業です。
当然探すには資料だけでなく、戦争体験者や付近の人への聞き込み調査も必要になって来るので、その時の会話も貴重な資料になります。お年寄りと話すのは戦争の事だけでなく島の色々な話も聞けて、オイラにとっては「凄く面白い!」です。仕事がら話すの全然苦じゃないオイラと、大抵お話し好きのお年寄りの方々、超長話になる事も多々あります(笑)。

前置きが長くなりましたが、今回はバンナ岳(大川山)です。当時バンナ山中にも数多くの壕など軍の施設が築かれました。あの横浜軍事法廷、三大事件の一つとなった「石垣島事件」の現場も、バンナ岳の麓です。
すぐ西隣にある前勢岳にも小島隊高射砲など軍の施設はありましたが、バンナ岳と違い前勢岳は山の反対側などは新川・大川住民がの避難した、民間人が利用した場所でもあります。なので前勢岳の山中や森林公園になっている場所を散策すると、当時の食器や井戸のような跡、薬莢が見つかる事もあります。

戦争遺跡を探す場合、軍の施設はいくつかの資料を見るとある程度の場所は分かるんですが、今回は街から近いと言っても山中なので、民家も畑もなく聞き込みはまず期待出来ません。報告書や本を出したSさんやMさんに聞く事もありますが、山中など調査当時から何十年も訪ねていない場所は記憶が薄れてしまって難しくなります。基本は、長靴履いて鎌持って、あとは現場に行って探すしかない。ある程度目星を付けた場所から進入です!

簡単に書くと、スマホの山地図アプリで地形図を見ながら急斜面を下りて、沢を渡って、斜面に向かって歩いて、斜面に沿ってウロウロしていると、見つけました! 今回は1時間くらいで見つける事が出来ました。いつもこうだと楽なんですが。

森の中に人工物が突如現れると、違和感からなのか少し怖くなります。この時もそうでした。一人で行く事が多いので尚更です。実際にはクロツグの葉などでもっと覆われていたんです。

こちらが全景です。コンクリート製で俯瞰で見ると、/‾‾\ こんな形です。文字化けしないで見れてるかな?
開口部は正面と右側の2ヶ所ですが、左側はイヌビワの根があって分かりません。画像の通り中は全て埋もれていて、余りにもキレイに埋もれているので戦後に埋めたのかも知れません。

向かって右側は石を積んで石垣があったようです。バンナ岳なので地質はフサキ層の粘板岩か千枚岩だと思いますが、いずれにしても脆いので、一人で来ている事もあって無理に土砂を掻き出して中を確認するのは危険だと判断しました。現状維持、いじらないのは保護の基本です。今のところ古い資料にも中の図面は一切出て来ないので残念ながら分からず終いです。

軍の資料は敗戦後に敵国に情報が漏れないよう、焼却処分してしまった物が多く、民間人どころか兵隊さんが日記を書く事も本当は軍の機密情報漏洩になるので禁止です。実際には多くの人が書き残していますが、それは「今日死ぬかもしれない、生きて戻れないかもしれない、戦争の様を残さなければいけない」と言う気持ちが書かずにはいられなかったんだと思います。以前読んだ手記には、「兵舎が空襲にあい爆弾が落ちてくる中、日記だけはと燃え盛る中に飛び込み持ち出した」と書いてありました。それくらい自分が生きた証みたいなもの残したかったのかも知れません。

GPSで落とし込み、撮影も終え、これで完遂。帰ろうかと思ったら、壕の脇から上に向かって何だか人が歩いていたような跡が。画像はありませんが、近くにもう一つ壕がある事は資料を見た時に書いてあったので、もしかしたらそこに繋がるのかな?、と思い斜面を登ろうとしたら崩れて登れません。仕方ないので沢沿いの斜面にそって回り込んで行くと、出ました! 

別の戦跡ではなく、コンクリ壕の裏側でした。貫通していたんですね。反対側にも構造物があるとは認識していなかったのでビックリです。画像右側が裏の出入り口だと思いますが、こちらも既に埋もれています。あとから見つけた資料によると、左のは石灰岩とコンクリートで組んだ「爆風除け」と言う事です。軍の壕の前には結構設置されます。右のは山中にあった岩を積んだだけのような感じでした。

見ての通り画像の真ん中に道が見えます。少し歩いて見ると山中に続いているようなので、他の壕との連絡路かも知れません。次の機会に辿って見るつもりです。表側よりも沢の水量も多く、水には困らなかった事でしょう。ですが、バンナ岳にもマラリアを媒介するハマダラカは当然いたと思うので、そちらの心配の方が大です。オイラもアチコチ刺されながらの撮影でした。

これで現場での作業は多分終わりです。あとは誰が作ったか?、内部構造は? オイラが分かっているだけでバンナ岳には、陸軍特設第4警戒隊、独立歩兵第271大隊、石垣島海軍警備隊が利用していました。しかし今回のコンクリ壕を誰が構築したのかは分からず、これからです。

最後の画像、コンクリ壕のすぐそばで撮影したものです。

「自然豊かな亜熱帯の美しい森」
「鬱蒼としたマラリア地獄のジャングル」

どんな気持ちで見たいですか?
オイラはずっと「平和ボケした日本人」で良いです。

 

#石垣島の戦争 #戦跡 #バンナ岳 #リフトアップ石垣島 

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長居公園・牧野展・花と緑と自然の情報センター 

2023年12月13日 | 文化・歴史好き!

先月帰省する時、爺ちゃんと婆ちゃんの何回忌目だと言う事で実家に帰省する前に大阪経由で帰省しました。関空に着いたその日はそのまま叔父の車で墓参りに連れて行って貰い、翌日は大阪に住んでいたころ遊びに行った長居公園に。長居公園はサッカー場や陸上競技で有名ですが、じつは植物園や博物館もあるんです。
前回来た時(婆ちゃんの葬式で10年以上前かな?)はそばを通っただけで植物園等があるなんて知りませんでしたが、子供の頃の記憶に残るコンクリ?の塀が当時40年以上経っても残っていてとっても嬉しかったのを覚えています。今回も見られるかと期待はしていたんですが、50年以上経つと流石に危険なのか、防犯上なのか分かりませんが撤去されていました、残念!

長居駅から直ぐの入り口から小雨の中テクテク歩いて行くと、修旅なのか課外授業なのか、地元じゃなさそうな学生さん達が沢山いてオイラに「植物園はどこですか?」と聞くので「僕も今探してる所」と言って笑い合いました。
植物園に着くまでも色んな植物が生えていて楽しみながら歩いて行ると、目の前に「牧野展」の文字が。
これは観るしかない!、しかも良く見ると無料!

このような牧野博士が書いた植物画が垂れ幕だけでなく、ポストカード等のグッズにもなっていて、お洒落~。絵が上手いとデザインとしても成り立ちますね。

入口には何と朝ドラで何度も出て来た「バイカオウレン」のジオラマが! ジオラマと書きましたが、ちゃんとした方が園芸として土を入れ水をやり、生きた状態が見られるように手入れしてくれているのです。オイラも見たいと思っていた植物なので嬉しかったです。花は時季が違うので見れなかったけど。

あとから気付いたんですが、この建物は「花と緑と自然の情報センター」でした。中には園芸相談コーナーや、奥には大阪の自然が凝縮された博物館があり(しかも無料!)、生き物展示や地質、標本、写真など盛り沢山で、結局植物園や博物館に行く時間が無くなるくらい楽しめて、ほぼ一日終わってしまいました(笑)。図鑑など自然関係の書物や資料も大量にあるし、グッズコーナーには欲しい物満載! 観察会も定期的に行っているようです。参加したい!

生きているようなオオサンショウオ。多分本物を防腐処理してアクリルで処理してるんだと思いますが、フィギアのように、まるっきり一から作ったんだとしたら素晴らしい技術ですね。どっちなんだろう?

こちらも生きてるみたい!

特にワクワクしたのがこの手書きのフィールドマップ。専門家が現場に行ってどんな動植物等が見られるか細かく書いてくれています。これを頼りに現場に行って自然観察したらどんなに面白いでしょう! オイラも自分でフィールドノートを書いているので、こう言うのがどれだけ大変か良く分かります。何度も何度も現場に足を運んではその都度新しい発見や季節の変化を書き足していく、本当だったら簡単には人に教えたくないような貴重な情報です。それを惜しげもなく公開してくれている、物凄い事ですよ。こういう手作りマップが館内あちこちに貼ってあり、まさに宝の宝庫です!

期会があったらぜひお尋ねください。近くの幼稚園の子供達も沢山来て楽しんでいました!

 

#リフトアップ石垣島 #長居公園 #自然観察 

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石垣島戦争遺跡 ヘーギナー(海軍北)飛行場(地下電波探知機壕)跡

2023年09月22日 | 文化・歴史好き!

オイラは戦争遺跡を案内するだけでなく調査も行なっいてます。資料などでも調べますが一番大事にしている事は聞き込み調査です。そして記録には残っているけど現状はどうなんだろう?という場所を改めて探し出し、GPSでポイントを落としています。市の文化財課には何故か未だにGPSが無く、地図上のポイントは残されていますが座標での記録がありません。県の平和祈念館と一緒に行う時もありますが数年おきに人が変わってしますので、継続的な調査はやはり個人的に行う事が多いのです。

石垣島だと文化財課の「戦跡巡り」などで行くような場所は時々人の手が入るのでまだ大丈夫なんですが、山中などそうでない場所は、行く事も知ってる人も減りつつあります。戦争経験者がいずれいなくなってしまう事は生きている以上仕方のない事ですが、このままでは誰もその場所に行けなくなってしまう、大切な戦争の記憶がひっそりと無くなってしまう恐れがあります。そしていま、戦争経験者の言葉の次に本物の記憶・記録として重要視されているのが戦争遺跡です。これは沖縄県だけでなく日本でも世界でも、まだ残されている戦跡を後世に残そうと動き始めています。


(熱研の入り口。初めの頃はこの道が当時の滑走路跡なのかな?と思っていました)

今回のヘーギナー(海軍北)飛行場もその一つで、「八重山の戦争(1996)」の著者・大田静男さんにも「発刊後、行ったことありますか?」と聞いて見ましたが「当時、何度か行ったぐらいでその後は行ってないなぁ」との事でした。

飛行場自体は現在、「国際農林水産業研究センター 熱帯・島嶼研究拠点」通称・熱研に変っていて現存しませんが、オイラが現状を調べたかったのは、その敷地内の地下に作られたと言われる「地下電波探知機壕(発電機壕)」です。聞き込み調査をしていると、「熱研を作る時に埋められてもう無い」と言う人が多かったんですが、聞き込みで気を付けないといけないのは、自分の思い込みや考えを見て来たかのように話す人がいると言う事です。だって大田さんが本を発刊した時点で既に熱研は出来ていたんだから、その当時の地下壕を写真付きで載せてる事からこの証言は辻褄が合いません。


(実際の滑走路の配置はこんな感じだったと言う記録と、もう少し右下の角に付くように東側にずれていたと言う記録があるが、当時の航空写真が見つかっていないので定かではない)

(瀬名波栄著 太平洋戦争記録 石垣島防衛戦史(1970) より抜粋加工)

 そんなこんなで数年モヤモヤしていたある日、幾つかの戦跡が記された地図を見つける事が出来ました。その地図を良く見てみると、何とオイラが探していた地下壕の位置もプロットされているではありませんか!

この地図を頼りに熱研の所長さんに許可を頂き敷地内を探して見ると、
「あった~!」
見つけました。

この画像では分かり辛いですが、ボコンッと3~4mくらい陥没した穴の中に何か見えます。崩落に気を付けながら慎重に穴の底に降りて見ると、コンクリートで出来た構造物を見つけました。

入口?開口部を見るとかなり土砂で埋もれていて、このまま中に入るにはかなり危険な状態です。この時は場所だけ見つけるつもりだったので何も用意していなく、物凄い蚊に刺されながらカメラとライトだけを穴に突っ込んで撮影したのが次の画像です。

入口と言うよりは通路の途中、と言う感じで無理やり壊して(壊れて)口を開けたような感じです。画面左側は崩落していますが先があったようです。右側はレンガ張りの通路がしっかり確認できます。資料を良く読むと「元の出入口は埋没が著しく確認できず」と書いてあります。また「天井が落盤~」とも。2006年の資料で既にこう書いてあるのでそれから約17年。これ以上の調査は、キチンとした装備と安全を確保して行う事になりそうです。

取り合えず開口部からもう少し腕を突っ込んで、虫除け対策もして、広角レンズとストロボを付けてノーファインダーで撮影して来ようかな(笑)。

 

 #リフトアップ石垣島エコツアー #戦争遺跡 #ヘーギナー #海軍北 #飛行場 #地下電波探知機壕

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石垣島 最後のササバモ

2023年03月28日 | 文化・歴史好き!

石垣島 最後のササバモ(ヒルムシロ科、絶滅危惧種)

 かつて石垣島にはブネラ川の中流域に、いくつかの沼と段丘からの豊富な湧水が流れ込む「ブネラ湿原」という石垣島最大の湿地帯がありました。上流は於茂登岳、下流はアンパル・マングローブから名蔵湾へとつながる山と海の間の重要な場所であり、水草や水生生物だけでなくあらゆる生き物、そして我々石垣島に棲む人々にとっても大切な場所でありました。
1999年、森由紀氏の調査報告では「石垣島において水草が最も豊富な湿原であった」と記されています。その報告書には今回のササバモも記されており、その後の記録では2016年、赤井賢成氏により調査確認されています。

★画像はササバモの種子が出来てきてる状態だと思いますが定かではありません。

★こちらの画像、最初は花が咲いてるのかな?と思ったんですが、花期は初夏から初秋との事で確かに石垣島の自然は時期が適当なんですが、あまりに早過ぎます。種子がバラけ始めてる様子ですかね? ところで、川でバラ撒かれた種子から下流で増えて行くのは分かるんですが、上流に広がって行く事も出来るんでしょうか?根や茎からも増えるそうですが、川だから流れはいつも下流向き。川底の土中でちょっとづつ上流に向かって伸びて行くのか?!
ちなみになぜこの場所で見られるのかと言うと、この川は両側の台地から非常に多くの湧水が流れ込み水温が低く保たれています。ササバモは高温に弱く低温には強いそうなので絶好の条件なんでしょう。ブネラ湿地もそうでしたが湧水が出ている所では高温が苦手な水生植物も良く育ちます。

絶滅危惧種であり石垣島内ではココにしか現存しないと言われる本種を紹介して良いのか?と心配される方もいると思いますが、絶滅危惧種ではあるものの日本中に生息し、石垣島のものだから貴重という訳でもなく、違法採取を危惧するよりも島内でココにしかないこのササバモを皆で守って行きましょう!と言う方が大事かなと。先日の魚と一緒ですね。とは言っても場所は公開しませんが(笑)。
先日も違法採取者が逮捕され島民(世間)の目が厳しくなって来ている事もあり、皆さんがより島の自然に興味と愛情を持って頂だけるよう、今後も観察会やSNS等で公開しても大丈夫だろうと思われる範囲で紹介して行きたいと思います。

 

#リフトアップ石垣島エコツアー #ササバモ #違法採取 #逮捕 

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旧日本軍の壕も、

2022年03月13日 | 文化・歴史好き!

シダやツル植物で覆われた石灰岩の斜面を見ていると、妙に人工的なコンクリートと銀の扉が見えます。秘密基地?!。コンクリートの壁には電気検診メーターも取り付けてあって、こんな所に誰か住んでいるんでしょうか?

実はこれ、かつて旧日本軍が壕として使っていた洞窟で、今ではその穴を利用して地震計が設置されているそうです。この並びには戦時中の通信室の壕や、戦闘機を隠す掩体壕も幾つかあり、白保の飛行場で離着陸がある度にここまで人力で押して来て隠していたそうです。石垣島には地震計が何か所かあり、オイラの住む名蔵からチョッと行った斜面にもやはり同じような銀の扉で、その中に計測機器が設置されています。

雨続きの石垣の冬が終わり、そろそろまたカブに乗ってウロウロできる季節がやって来ました。啓蟄が過ぎた途端にムカデが家の中に入って来たり、藪漕ぎ中に毛虫にやられたり、旧暦の自然に対する正確さに改めて関心させられます(笑)。

#石垣島 #旧日本軍 #啓蟄 #地震計

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石垣島の粟石

2022年03月03日 | 文化・歴史好き!

先日、地元新聞社の方からオイラの過去記事にある「粟石」について教えて欲しいと連絡がありました。そこには海岸の岩を切り出した跡を粟石の切り出した跡と書いているのですが、もしかしたらビーチロックを切り出した跡なんじゃないか?とも思っていて、以前から何度か現場に見に行ってるんですが、どうもビーチロックとは岩肌と言うか岩質が違います。だからその記事はあえてそのままにしておきました(今回少し訂正済み)。今回は新聞社の人にも、もしかしたらあれはビーチロックかも知れないと伝へ、話を終えました。

では自信をもって「これは粟石を切り出し跡だよ!」と言える場所はまだ石垣島に残っているんでしょうか?以前から古い写真で石切場の画像を見てはいたんですが、それはどこなのか?今回改めて調べて見ました。

モノクロの画像2点は、
Geology of Ishigaki-shima, Ryukyu-retto
Professional Paper 399-A
By: HELEN L. FOSTER
より。

FIGURE 46. Quarry In Ryukyu Limestone. This is a typical quarry in
sandy Ryukyu Limestone about 2.7 kilometers north of Ohama.
Quarrying is done entirely by hand tools. 1956.
図46.琉球石灰岩の採石場

これは典型的な採石場です大浜の北約2.7キロにある琉球石灰砂岩(粟石)。
採石は全て手工具で行われます。1956年。

粟石を調べていると必ず行き着く画像です。戦後、ヘレン・F・フォスターさん率いる調査団が調べた和訳題名「琉球列島 石垣島の地質」からなんですが、1枚目の場所は現在の最終処分場の一部です。現在では建物が建ち、多少場所が前後しているのとレンズの違いでピッタリとは一致はしませんが、右上の小山見たいのとか見ると、まぁそんなに間違ってもいないかな?と思います。

この画像右後ろに行くと池のようなのがあり、おそらく採掘していていた穴に水が溜まったんでしょう。近所で工場を営んでる方に聞いて見ると「そのカーブの辺りから奥がそうだよ。持ち主は最終処分場にするから土地を譲って欲しいと言われ譲ったらしい。」との事で、場所も一致します。また斜面を見ると下の方が石灰質混じりの地質になっていました。

2枚目は地元(石垣島)の方が粟石を使ってお墓を作っている画像です。

FIGURE 47. Construction with Ryukyu Limestone. Sandy Ryukyu
Limestone is quarried, allowed to harden, and used in the construction
of native tombs, walls of buildings, and retaining walls. The tomb
in the picture is being constructed of blocks of sandy Ryukyu Limestone
locally called awalshi. October 1956.
図47.琉球石灰岩による建設
琉球石灰砂岩
は採石され、硬化し、建設に使用されます。昔ながらの墓、建物の壁、擁壁。 写真の墓は琉球石灰砂岩のブロックで構成されています。地元ではawalshi(粟石)と呼ばれています。 1956年10月。

現在でも住宅地に行くと、粟石を使った塀の家が沢山あります。粟石はノコギリで切れるので加工もしやすく、古墓の飾り屋根などにも良く使われているのが見れます。

自分で運んで来た石灰岩を積んで作った石垣の塀と比べ、粟石はお金を払って買わないと手に入りません。石切場から切り出して運んで貰って施工するのでお金がかかっている分お金持ちの家が多く、今でも粟石の塀が残っているお宅を見ると敷地が広く立派な家が多いです。ただ馬車を持ってる方は自分で石切場に買いに行き、施工も仲間内でやったという話もあります。また過去の地震の時、ブロック塀へ倒れたけど粟石の塀は倒れなかった、と言う証言もあります。繋ぎは漆喰です。

オイラ的にはこっちの眺めの方が好きですけどね(笑)。

ところで、粟石とビーチロックの違いはご存じですか? 粟石は海底で貝殻やサンゴ、有孔虫などの殻が堆積して出来た堆積層です。ビーチロックは文字通り海岸に溜まったやはり粟石と同じような炭酸カルシウムを持った物の残骸が雨や地下水などで溶けて固まった岩です。河川のように表面的に水が流れている場所ではなく、砂の中をジワ~と淡水が流れているような場所に良く出来てます。

今回調べていて、他にも前勢岳のマキラ側や裏石垣にも一か所あったと言う事が分かりまいた。その中で確実にココだ!、と分かった場所がもう一か所見つかったので紹介しておきます。

場所は宮良川のそばで、右上に昔の製糖工場の2本煙突が見える辺りです。現在は草地になっていて、この隣で畑をやっている大浜のMさん89歳(1933年生)にお話を伺いました。

 土地改良前まではあった様な気がする。この辺りは1mも掘れば粟石が出て来る。現在の持ち主は牛をやってる人で草地として使っている。戦時中は掘った穴を壕に使ったりもしていた。直ぐそばが大浜集落の第二避難所で、当時はこの辺りに高射砲?大砲?が6台くらいあったよ。元々はそんなに悪くない土だったっけど、粟石取らなくなって土地改良で埋める時に他所から持って来た土が混ざってる。僕の土地から勝手に土を持って行こうとしたので怒ったよ(笑)。

 との事でした。地元のある程度の年齢の方に聞くと結構覚えている方もいて、それなりにお話をお聞きする事が出来ました。しかしオイラと変わらないような現役世代の方に話を聞くと地元の方なのに皆知らない、と言うか話が通じませんでした(笑)。粟石自体が何だか分からないのです。ただ畑で工事をやっていた方は普段から地面と関わっているので詳しかったです。「粟石はココよりもうチョッと低い場所だよ」とか経験からご存じでした。

今回はここまでです。お話をうかがった皆さん、ありがとうございました。
資料や情報等いつも協力下さるAさん、山の先生でもあるMさん、そして何より当時のお話や情報を教えて下さるM先生と、当時実際にヘレン・F・フォスターさんを案内していたS子さん。貴重なお話しありがとうございました。このお二人がいなければ今回分かった2か所には辿り着かなかったと思います。お金では買えられない、こういう人との繋がりがオイラの一番の財産です。

#リフトアップ石垣島エコツアー #粟石 #HELEN L. FOSTER

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等々力渓谷、その前に(帰省4日目)

2021年11月08日 | 文化・歴史好き!

この日は内地にいる頃から気になっていた東京23区内唯一の渓谷「等々力渓谷」に始めて行って来ました。駅を出て踏切を渡ると直ぐにトイレがあるのでココで用を済ませておきましょう。その後右に曲がり「用賀中町通り」に出て左に行くとローソンや成城石井があり「等々力通り」の方に戻ると吉牛、すき屋、ラーメン屋、ドトールなどがあります。お昼にかぶる人はここいらで買っておくか食べておかないと苦労します!

等々力渓谷に行く前に寄って欲しいのが、成城石井の駐車場?です。ここでは世田谷区指定の文化財や等々力渓谷の上側にある林の樹々が見れます。

詳しい事は読んで頂いた方が良いですね。左後ろ(駐車場奥)には真新しい倉も見えます。

ヤブミョウガ(ツユクサ科)、水場が好きな植物です。渓谷に下りたらまだ花が咲いていたのを撮影した思うので、後ほど載せます。石垣島にもこの仲間があり、ヤンバルミョウガ、コヤブミョウガ、ナンゴクヤブミョウガ(同じ?ザルゾコミョウガ) です。オイラが確認してるのはヤンバルとコヤブ。ナンゴクは見てたとしても気付いてないでしょう(笑)。内地のも石垣島のも絶滅危惧種だったりそれに近かったりで、日本では水場の植物がことごとく絶滅の危機に瀕しています。つまりそれだけ「日本の水も水場も悪くなって行っている!」と言う事です。石垣島のような小さい島では、それが如実に表れています。

シュロ(ヤシ科)。シュロは実は数種あります。そして全て外来種です! 石垣島のクバ(標準和名ビロウ、ヤシ科)と非常に似ていますが、同じヤシ科でもシュロはシュロ属、ビロウはビロウ属でチョット違います。ただいずれも昔から利用されて来て、縄や敷物、うちわやほうき、茎?葉殻?は杖やバネとしても使われていたくらいです。

モウソウチク?(イネ科)。実は竹も外来種?!と言う説があります。じゃぁ「かぐや姫」が入っていた竹は?あれは早目に中国から移入された「ハチク」の可能性が高いとの説です。ハチクはせいぜい直径10センチなので「3寸の赤ちゃん(三寸ばかりなる人)」が入っていたと言うのも納得いきます。ただ、2~300万年前の地層からマダケらしい化石が出て来ているので、近年「竹会」がザワついています(笑)。 いずれにしても竹もシュロも利用価値が非常に高いので、自然に広がったと言うよりは人がドンドン広げていった、と言う説は正解かも知れません。

ケヤキ(ニレ科)。歩道にはこんなのも大切に守られていました。元々この辺り一帯がちょっと前まで「武蔵野台地」方面から多摩川に注ぐ渓谷(谷沢川)のある森だったんでしょう。もっと前は海の底です!

続く

#リフトアップ石垣島エコツアー #等々力渓谷

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苗取、田引、田植え

2021年08月09日 | 文化・歴史好き!

伝統農法で無農薬、人力田んぼの続きです。先日、「苗取り、田引き、田植え」があったんですが、オイラは仕事があったので行けませんでした。ですが仲間から、まだ端の方や根付かなかった苗の代わりに植えたりとしないといけないと教えて貰い、その日までに行けばオイラも出来ると思い、前日の夕方に行って来ました。

ですが行けば直ぐに田植えが出来ると思ったら大間違い。まずは田んぼの端で種を撒いて育てた苗取りからです。近代農法では専用の苗床に種を撒き、コンバインを使わなくとも苗を取り易いようにするんですが、今回は違います。そのお陰で苗を取るのに一苦労。

五葉期(ごようき、葉が五枚)ほど育った苗を角スコとかで根と土ごとガバッと掘り上げたら、畔に腰かけ水でほぐしながらバラバラにしていきます。この時根が千切れますが意外と平気と言うか、実はワザと根先を切るやり方もあるくらいで、切れた所から細かい根が沢山生えて来てより根張りが良くなると言う考えもあります。画像のは結構ちゃんとほぐして根が見えていますが、あんまりほぐすよりある程度土が付いたままの方が根に優しいです。そして分結部分にダメージを与えないようにする事が大切です。

この時は大先輩が一人居ただけなので「撮って」と言えなく、自撮りで手だけ撮影(笑)。

実はオイラの母ちゃんは徳島県のド田舎の生まれで、兄弟姉妹合わせて7~8人。爺ちゃんは役場勤めでしたが田舎だから当然農家もやり、田んぼも何町歩も持っていました(山も)。農家はみんなそうだと思いますが、子供の頃田植えの季節になると、学校に行く前に田植えを手伝わされ、帰りには一番下の弟を家まで連れて帰るというのが日常だったそうです。

山中の配水管が壊れていて水が来なくて困っていたんですが、この日修理の人が来て明日の朝には溜まってるだろうとの事、一安心です。画像で格子状に線が引かれていますね。これを目印に苗を植えていきます。これを引く事を田引きと言ったりします。引く道具をがじ棒(田引き棒)と言ったりします。いずれも地域によって言い方や道具はそれぞれです。

まだ若葉さんがいました。こっちを見ていますね。もう直ぐ竹富島に帰るか、白保の田んぼに行くかも知れません。ところでこの日の若葉さんはオイラが撫でると首を振って嫌がります。触られたくないと言った意味なんですが、前回は全然拒否されなかったのに、どうしてかな?と考えました。この日オイラは汚れても良い様にジョギング用のオレンジ色の短パンに着替えたので、その色がイケなかったのかも知れません。もし繋がれてなかったらオイラに突進してた?

#リフトアップ石垣島エコツアー

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娘さんに

2021年05月08日 | 文化・歴史好き!

GW中のお客様なんですが、リクエストの中に「戦跡も」とありました。実際にお会いしてからお母さんに聞くと「歳をかさねて日本の歴史も知らないといけないと思うようなった」「娘にも知ってて貰いたい」という事でした。まだまだ若いお母さんでしたが嬉しい気持ちになりました。

小さいお子様だし遊び半分でも良いし、忘れてしまっても良いんです。この子に体験して貰う事はとっても大切な事で、無意識の中にこの時の経験が将来きっと何か糧になると信じて楽しんで頂きました。

#リフトアップ石垣島エコツアー 

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陸軍重砲兵第八連隊、速射加農砲砲座跡と弾薬庫跡

2021年04月29日 | 文化・歴史好き!

まだGPSを持っていない頃に行ったのでGPSに落としていない場所を改めて尋ね地図に落とす、というのをやっているんですが、ここもその一つです。「重砲兵第8連隊・速射加農砲砲座跡と弾薬庫跡」。右がカノン砲を隠していた場所で左が弾薬庫です。戦時中はレール?見たいなのが敷かれ出し入れしていたと聞きました。

元々は西表島・船浮湾にあった船浮要塞で銃砲兵連隊として赴任していた部隊が一部を残し部隊名「重砲兵団第8連隊(連隊長・入野大二郎中佐)」とし、石垣島の中心であるこの山中に陣地を構築、移動して来ました。設置されていたのは12センチカノン砲と言われているので、おそらく「斯加式十二糎速射加農砲(しかしきじゅうにせんちそくしゃかのんほう)」だと思います。なお、船浮要塞関連は、船浮要塞重砲兵連隊本部付将校、第二中隊中隊長・元中尉が書かれた「鉄田義司日記」にかなり詳しく書かれています。オイラもまだ読んでいないので、ぜひ読みたい。

八重山における戦時中の日記を本にした物は幾つかありますが、いずれも当時兵隊さんが日記を書くという行為は情報漏洩、スパイ行為に当たるので皆さん厳重に隠しながら書いていたとの事です。ただこの「鉄田日記」の著者のように将校クラスになると隠すのも比較的楽だったんじゃないでしょうか。

50mほど離れた場所にあるやはりカノン砲の砲座跡です。この近辺には他にも斜面に掘られた壕が幾つか点在しているようですが、オイラはまだ探し切れていません。何せご覧の通り亜熱帯ジャングルですから探すのに一苦労だし、探しているうちに現在地を見失いそうになります ( ゚Д゚)

1944(昭和19)年頃から本格的に戦況悪化。石垣島にも連合国軍が上陸してくるのではないかと言う事から、同年9月にこの場所に設置したと言われています。ここからであれば当時石垣島に合った全ての飛行場(陸軍東飛行場(白保)、海軍北飛行場(現熱研)・南飛行場(旧石垣島空港)に向け加農砲(カノン砲)を放つ事が出来ます。敵国に飛行場を奪われそうになった時、攻撃出来ると考えたのでしょう。実際各飛行場は何度か攻撃されたそうですが、ここから放たれた砲弾はなんと0(ゼロ)!。その理由が「うかつに撃って敵に場所がバレると困るから」だそうです(+_+)。 しかし当時既に空撮その他により米軍には石垣島のほぼ全ての配置がバレていたそうです。

#リフトアップ石垣島エコツアー #石垣島の戦争遺跡

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