今年も随所で、桜を楽しむことができました。あなたは如何でしたか?写真の桜は何処にあるかと言いますと、実は堤防の上(天端・「てんば」と読む)にあります。最大幅で50m。治水上、重要な役割を担っています。
小田原北条氏が秀吉に滅ぼされて後、徳川家康は大久保忠世を小田原城主としました。忠世は足柄平野全体にかんがいし、米作をさせようと、流路を平野の中央寄りに移す決意をしました。その為の堤防でした。ところが富士山の噴火(1707年)やらで、なかなか進展しません。結局、1726年・田中丘隅、1735年・蓑笠之助の働きによって完成を見ました。
忠世は武田信玄の釜無川の治水工事に、ヒントを得たのではないかと見ています。旧・御勅使川と釜無川との合流地点である現・信玄橋一帯が洪水に見舞われていました。それで、竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川水流の制御をした訳です。
現在、どちらも水の辺の憩いの場となっています。尚、記事を書くに当たり、南足柄市・「市史の散歩道227、228 いにしえ探訪」を参照しました。小田原梅干
小田原北条氏が秀吉に滅ぼされて後、徳川家康は大久保忠世を小田原城主としました。忠世は足柄平野全体にかんがいし、米作をさせようと、流路を平野の中央寄りに移す決意をしました。その為の堤防でした。ところが富士山の噴火(1707年)やらで、なかなか進展しません。結局、1726年・田中丘隅、1735年・蓑笠之助の働きによって完成を見ました。
忠世は武田信玄の釜無川の治水工事に、ヒントを得たのではないかと見ています。旧・御勅使川と釜無川との合流地点である現・信玄橋一帯が洪水に見舞われていました。それで、竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川水流の制御をした訳です。
現在、どちらも水の辺の憩いの場となっています。尚、記事を書くに当たり、南足柄市・「市史の散歩道227、228 いにしえ探訪」を参照しました。小田原梅干