たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

山陰の旅・島根県③―世界遺産・石見銀山遺跡に3時間

2016-07-13 12:50:31 | 国内旅行

間合いが開きましたが、山陰の旅について記録しています。
2007年7月に「産業文化遺産」として、
大田市の「石見銀山遺跡」が世界遺産に登録されました。
その「石見銀山」遺跡で短時間でしたが研修しました。
「石見銀山」は日本鉱山史の重要な位置を占めていた「産業遺構」です。



あいにく雨模様でしたが石見銀山公園から片道40分の、
遊歩道を歩いて龍源寺間歩(まぶ)まで往復しました。
龍源寺間歩は現在公開されている唯一の坑道遺跡です。



当時の銀山には、大小600余りの間歩(坑道)があったと記録されたいます。
人がやっと立てるくらいの穴をノミ一本で岩盤を何千メートルも削り、
銀鉱石を掘り、運び出した穴が往時は縦横に続いていたものでした。
いまの私たちから見れば、とても人のなせる業とは思えないものがあります。





遊歩道の途中には鉱山集落跡の廃屋やお墓、
銀山で亡くなった方を奉った羅漢寺があります。
今は花の道になって、お休み処なども点在していますが、
往時は繁栄と苦役の道だったのでしょう。



入ることが出来る龍源寺間歩(270メートル)の入り口は小さく屈んで歩く高さです。
途中には幾つもの枝鉱道が掘られていました。





小降りだった雨は、石見銀山公園に戻る直前から強くなりました。
大田市ではこの鉱山地区と銀山繁栄の面影を残す「大森の街並み」の、
文化的景観と自然保護のための活動を続けています。
石見銀山世界遺産センター

秘湯の源泉かけ流し一軒宿と八ッ場ダム工事視察の旅

2016-07-10 16:15:47 | 国内旅行

公民館サークルの有志メンバー15人と宿泊旅行に行きました。
群馬県・浅間隠山(日本2百名山)山懐にある秘湯の源泉湯宿。
かやぶきの郷・薬師温泉「旅籠」での「時間旅行」でした。



木戸札を受け取って郷入りです。
全国から集められた2万本の枕木が敷かれた枕木街道で、
10軒を超す「かやぶきの館」の郷が結ばれています。



ウエルカムイベントで餅つきに参加しました。







街道を辿っていけば本陣の館の大門がスーッと開きます。
フロントと大きな囲炉裏のあるロビーにでます。



また街道の脇には時代箪笥回廊や古き時代の生活民具、
郷土玩具など数万点の「時代鑑定物」が並ぶ、展示処の館が点在しています。







お湯処は枕木街道の途中にある薬湯の「郷の湯」を始め、
温川に面した宿泊棟「せせらぎ館」の1階は「湯屋街道」。
「薬師の湯」「滝見乃湯」足湯、貸切風呂が軒を連ね、
ハシゴ酒ならぬ「ハシゴ湯」も楽しめます。
温度も丁度よく、優しい感じの泉質でした。





タニシの爺、同行の男5人で薬湯「郷の湯」に浸かりました。
建物、床、天井は吹き抜け、湯船、すべて木造です。
溢れる湯に浸かった男5人「ああ、いい湯だな」



このあと、枕木街道をぶらぶら降りて、
本陣を通り抜け「滝見乃湯」へ、ハシゴ湯めぐりです。



ここでも男5人「はー、いい湯だな」。滝と川の音が心地よい。
仕切りの隣りは女性の湯、吹き抜けの天井から女たちの声が響きます。
女性10人、男5人が3部屋に分かれて、
館内探検と夕食までは旅談義でわいわい。





夕食は別の館で「囲炉裏会席膳」地場の食材を、
若い女性接待さんの説明を聞きながら味わいました。
上の写真が夕食、下が朝食です

食後は一室に集まって二次会で「あれや、これや談義」
タニシの爺は、途中から「湯屋街道」へ抜け出して、
メインとなる「薬師の湯」3浴槽に浸かりました。

朝は5時から「薬師の湯」3浴槽、一番奥の露天「滝見乃湯」までハシゴ湯。
滝の飛沫が届くにはチョッと距離がありましたが、
半身浴を楽しんでいました。
さすがこの後の湯疲れが心配になり、ゆっくり湯船から立ち上がり、
引き上げました。
チェックアウトは10時、もう一回入れるかな~





2日目目の朝、山間の湯宿は緑の中にあります。
送迎車にて中之条駅に戻りました。
吾妻線下りに乗車して長野原草津口駅に向かいます。
同駅前の「草津・六合ステーション」から出発する、
八ッ場ダム現場見学会の「よくばりコース」に予約してあります。



13時30分、説明ガイドさん付きの見学バスがスタートしました。
吾妻渓谷の底のあった「川原湯温泉」が高台に移転しています。
湖底に沈む集落や小学校が殺風景な景観の中に散在しています。
建物が新しいことが、かえって失ってきたものを露呈している感じが否めません。





かつての峡谷を見下ろすように広い道路が両側に整備され、
長い丸岩大橋、不動大橋、八ッ場大橋が峡谷の上に架かっています。
ダムが完成すれば湖面の上を通る橋になります。





両岸からコンクリートの打ち込みが工事が進んでいる。
巨大クレーンが移動して、と巨大ブルが動き回る、
ダム本体の工事現場近くにも行きました。



壮大な峡谷空間を閉じてしまうダム壁提、
長さ336メートル、提の高さ132メートルを想像することが出来ませんでした。



渓谷一体が全く異なった景観を現わすことになる、
完成予定年度は平成31年度となっています。

タニシに爺、6年前にもここを視察しています。
民主党の政権時代でダム本体工事は「中止」でした。
そのとき見上げた巨大橋梁工事が完成した「不動大橋」です。
下には旧吾妻線の跡は骨材運搬のベルトコンベアーになっていました。
 最後までお付き合いありがとうございます。



山陰の旅・島根県②―足立美術館 13年連続「世界1に輝く」日本庭園

2016-07-02 14:30:22 | 国内旅行

山陰の旅について記録しています。
松江城と同じく20年前に足立美術館も訪れました。
横山大観はじめ日本画の巨匠のコレクションと日本庭園で有名です。





展示絵画は季節ごとに変化はあるでしょうし、
順路やディスプレイにも多少の変化はあるのでしょう。
拝観した本館・庭園は20年前の記憶がよみがえりました。





現代日本画を展示する新館は20年前には無かった気がします。。
駐車場脇に出来ているお土産物産館もありませんでした。





日本画の巨匠の作品が堪能できることが第一ですが、
リアルな庭園が額縁にはめ込まれる「生の額絵」「生の掛軸」は一見物です。





ここを訪れたら、せかせか歩き回らないことです。
ゆっくり時間を掛けて楽しみましょう。
順路コースの庭園に面した一角に設けられている、
喫茶ルームや茶室でのひと時が至福の時空になりました。







コーヒー、日本茶とお菓子はそれなりのコストになります。
何回も行ける機会がないなら、
ぜひ一度は至福の時を過ごしてみるべきです。



大きな前面ガラスの先に、世界一の庭園が開けます。





公式サイト

山陰の旅・島根県①― 国宝天守閣の松江城

2016-07-01 15:13:14 | 国内旅行

松江市には20年ほど前にも行きました。
その際はお城は下から眺めただけで、
小さな遊覧船でお堀を回わりました。(松江堀川めぐり)
幾つもの小さな橋をくぐるたびに、背を低くして、
船底にひれ伏して通過したことを覚えています。



ほぼ1年前の平成27年7月、
正式に国宝に指定された天守閣まで登りました。
今回は急な木造階段を手すりに掴まりながら、
幾階も狭い梯子を上りました。
本物の鎧兜が具足、槍とともに陳列されています。



武士といえども切られたり、槍で突かれたら痛い。
だからこのような鉄で身体をカバーしたのでしょう。
それで馬に乗って走り回ったことを思うと、
武将というのはすごいパワーの持ち主だったんですな。



しかし武装しているのはお偉いさんだけで、
雑兵、足軽は軽装で先頭を走って、
切り込まなければならない身分で宿命です。



一番先に切られたり、討ち死にしなければならない、
軍勢何十万と映画やテレビ、小説で表現されていますが、
要は切られ役にすぎない。今に天守閣は残っていても、
切られて戦場の土と化した人間は何も残っていない。



ランチは松江城の近くの「松江堀川地ビール館」でいただきました。
天守閣登頂で汗をかいた後の、生ビールが抜群に身に染み渡りました。



松江城公式サイト

山口市香山町にある国宝 瑠璃光寺五重塔

2016-06-27 11:46:27 | 国内旅行

「おいでませ、山口へ」の「西の京 やまぐち」をチョコッと見て来ました。
タニシの爺、山口県には、これまで足跡はありませんでした。





山口市香山町にある曹洞宗の瑠璃光寺(るりこうじ)は、
境内は国宝の五重塔を中心とした香山公園と呼ばれています。





緑の木々の中にすっきりと立つ木造の五重塔、
美しさは日本三名塔の一つに数えられている。



全国に現存する五重塔のうちで10番目に古いという。
室町時代・大内氏全盛期の山口を中心とする大内文化を伝える寺院であり、
「西の京・山口」を代表する観光名所だということです。





香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されています。

新潟の日本海も北海道と同じに蒼かった

2015-11-21 22:41:28 | 国内旅行

北海道の日本海を旅したつながりで、新潟の日本海も書きます。
公民館サークルの有志で山形の月山ダム、鶴岡、あつみ温泉、
日本海の笹川流れ、荒川、玉川渓谷、赤芝峡の紅葉ラインを巡って来ました。
笹川流れは日本海に海食岩がせり出した海岸で景勝地になっています。



新潟から秋田方面に行く羽越本線で村上辺りを過ぎると、
線路は海に接近して窓から奇岩の続く海岸線は幾度か見てきました。
遠くの粟島がよく見えます。





今回はバスで景勝地の真ん中の道の駅で休憩したので、
ゆっくり写真を摂れました。





北海道で見てきた日本海に比べ大分穏やかです。
海の色は濃く積丹ブルーに遜色ありません。
遠くに粟島が見え、さらに遠くの海上に佐渡の島影が浮かんでいました。





紅葉ラインは米坂線に沿って渓谷沿いに続き、
山形、新潟、福島の3県にまたがる、
「飯豊朝日連峰」の雄大な山稜の晩秋を走りました。





紅葉は幾分茶色になっていましたが十分楽しめました。
めったに行けないマタギの里・飯豊梅花皮荘の周辺も散策しました。





ご近所の道野辺を徘徊するのが身上のたにしの爺、
この秋は、長距離徘徊に縁があって見聞を広げました。



所属の公民館サークルの12月の企画は 爺の班が当番に当たり、
歳末の年忘れ「浅草ぶらぶら歩き」を提案しようと思い、
今日は下見に上京してきました。すごい人出でした。
案内する当日の高齢者「迷い子」対策をどうするか迷います。
高齢のご婦人方はしゃべりながら歩くので、遅れてしまいます。
20人足らずにも拘らず、先頭と最後尾は50メートルくらい離れてしまいます。
今日のような仲見世の混雑具合だとはぐれたら探しようがない。
GPS機能付きケータイでも持って持ってもらうしかない???

日本海の北海道⑨ 旅の終わりは積丹半島半周、島武意海岸から神威岬まで

2015-11-19 11:49:55 | 国内旅行



日本海の北海道南下の旅は積丹半島に入りました。
余市の市街を後に海岸に出ると、雨がバスの窓に吹き付けています。
空も海も暗くなってきました。



バスは海岸から丘稜を捲くように岬に出ました。絶景地・島武意岬です。
岬に一軒だけの食事処「鱗晃」で海鮮うに丼を食しました。



「積丹生うに」のシーズンは8月までという女将の説明で、
一度蒸してありますという。
チョッと残念でしたがしょうがありません。



食事を済ませて広場に出ると、なんと、雨はすっかり上がって、
青空が広がっているではないですか。
レストハウスの脇から、積丹岬遊歩道を数分上がると、
眼下に海を見下ろせる崖に出ました。



覗き込むように見下ろすと、
積丹ブルーと呼ばれる蒼い海が広がっていました。
「日本渚百景」に指定されている積丹岬の景勝地・島武意海岸です。



本来、この海岸へは小さなトンネルを通って行くのですが、
爆弾低気圧の嵐で通行不能になっていました。真っ暗なトンネルを抜けると、
目の前に屏風岩と積丹ブルーの海が一面に広がる、
という按配になっているそうです。
「生うに」もはずれ、絶景観賞もはずれ、
まあ、しょうがありませんね。雨が止んだだけで良しとしましょう。



バスは丘陵を降りて海岸に出ました。
日本海の荒波に削られた海食崖の海岸が続きます。
長いトンネルや短いトンネルが続きます。
突き出た海食崖には使われなくなったトンネルがあります。
多いところでは3通もあります。



一番海側の穴は小さく人とか荷車が通れるくらいです。
少し陸側にある穴はようやく車が通れるくらいです。
私たちのバスが通っていくトンネルは大型バスが2車線通れます。
幾つかのトンネル跡が、岩と崖の海岸交通の歴史を物語っています。



また、美国海岸の道路わきには「番屋」が幾つも残っています。
サケが川面を波立てながら遡上する河口に掛かる橋を通り抜けました。



海岸に並ぶ奇岩と果てしなく広がるブルーの海を見ながら、
今回の旅の到達地点・神威岬に着きました。



晴れて雨は止んでいるが、
バスを降りると岬を席巻するように烈風が身体に当たって来ます。
衣服が飛ばされないように岬への坂を登ります。



神威岬は積丹岬と相対して突出した岬で、
北前船が往来していたころは、
日本海最大の難所で約80mの海蝕崖が続き、
その沖には海蝕による奇観・岩礁が連続しているという。



岬の先端への探勝路は崖の上を細く続いています。
この日の到着時には強風による危険で探勝路入り口になっている、
伝説の「女人禁制の門」は閉じられていて、
入ることはできませんでした。

 

いつかこの門から先に行ける機会ができることを願って、
旅のレポートを終わることにします。



これまで海とは全く関わりのない生活で、
日常で海を感じる生活体験のない「たにしの爺」
 この先、湧水田の泥の中でたそがれる運命です。

日本海の北海道⑧ 小樽からニッカウヰスキー余市蒸留所の余市へ

2015-11-16 11:23:12 | 国内旅行



北海道の日本海を南下、留萌から増毛までJR北海道の廃止予定線に乗ったことは既にアップしました。
夕日の落ちる石狩湾の日本海を見ながら小樽に入り、運河沿いを歩いたことまで綴ってきました。

この後、余市に向かいました。函館本線に沿って、忍路海岸へ続く海岸線道路を走りました。
海岸は日本海の荒波に削られて海食崖が続き、入り組んだ海岸線と奇岩・岩崖が連続しています。
ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所の入り口に着きました。







ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所については、
NHKの朝ドラ「マッサン」で全国的に知られています。



大正時代ウイスキーづくり情熱を燃やす造り酒屋の跡取り息子が、
単身スコットランドへ渡り、出会ったスコットランド人の女性と半ば駆け落ちの状態で国際結婚し帰国。
余市に本格ウイスキー製造の道を切り開いていくストーリー。


ドラマのモデルとなっていたのが、
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝とその妻リタで、
リタが政孝のことを「マッサン」と呼んでいたことから、
ドラマのタイトルが「マッサン」となっているという。







石造りの正門を入ると、紅葉に彩られた余市蒸溜所の構内です。
ウイスキーの歴史やニッカの生い立ちなどを展示した博物館や、
竹鶴と妻のリタが暮らした私邸の一部も見ることができました。





広い試飲場では2種類のウイスキーを1杯づつ戴けました。
「ディスティラリーショップノースランド(売店)」で記念に2本買い求めました。



この後、最後のハイライトである積丹半島・神威岬です。
小樽徘徊ころから降り始めた小雨が強くなってきました。
風鳴りもしています。神威岬は強雨・強風になると入れなくなります。
神威さま。晴れにしてください。

日本海の北海道⑦ 小樽運河は色付いていました

2015-11-14 14:55:36 | 国内旅行

稚内から日本海岸を南下してきました。
3日目は小樽歩きからです。





小樽には30年以上も前に札幌で仕事をした後、
鉄道列車で来て以来ですから、寿司を食べて、
駅横の市場を見て歩いた記憶くらいしかありません。
当時とは全てが変わっているのでしょう。



運河倉庫の壁のツタが赤く染まって水面に映っています。
運河に注ぐ川には産卵に遡上したサケが何匹か動いていました。



北海道で最初の鉄道。手宮線(貨物線)の廃線跡を撮っていたら、
女性3人組に頼まれシャッターを押しました。





金融資料館で金の延べ棒や1億円の重みを体験したり、
お金に関するあれこれを見聞しました。







堺町通りに戻って、キョロキョロ徘徊していると、
バスガイドさんが話していた、
「お父さん預かります」の看板が目に入りました。



「利尻屋みのや」という昆布専門店で昆布製品が並んでします。
店員さんに誘われて床机に腰を下ろすと、
「ぜひ味わってください」と味噌汁とお茶を出してくれました。
「ゆっくり飲んでください」「昆布が溶け出し甘くなりますという」
お茶が確かにまろやかな甘いとろみに変わって来ました。

「お父さん預かります」の意味は、
カミサンたちが硝子店やお菓子の店で買い物に夢中で、
お父さんがいらいら待っている間、この店で預かってくれる?
待っている間に試飲した商品が欲しくなるという塩梅のようです。



この後「北一硝子」や「ショコラの店」など覗きながら、
蒸気時計のメルヘン交差点をUターンして、
トイレを探して居たら、集合時間に遅刻してしまいました。









この後、忍路海岸と函館本線に沿って、
ニッカウヰスキー余市蒸留所の余市へ向かいました。
<この項続く>

日本海の北海道⑥ ニシンと共に辿った鰊番屋の北海道遺産・旧花田家

2015-11-13 11:45:49 | 国内旅行

北海道の日本海岸を南下した旅の記録を綴っています。
2日目の旅、最初のハイライトは、
ニシン漁で大富豪になった旧花田家番屋を見学することです。



入り口には、ニシンを入れて運ぶ「もっこ」と呼ばれる木製の籠を背負う像が立っていました。
旧花田家番屋は、北海道留萌郡小平(おびら)町にあって、
日本最北にある国指定重要文化財で北海道遺産にもなっているという。
「旧花田家番屋」は明治33年頃に建てられたもので、
現存する番屋で最大規模のものだそうです。




海岸の街道沿いにデーんと目に入ってくる木造の大きな施設。
目の前は白波を立てる日本海が大きく開かれた圧巻の光景となっています。







明治大正期から昭和30年ころまで鰊、ニシンの群れ押し寄せた日本海。
ニシンは「鯡」とも書きます。
「魚に非ず」というコメにも匹敵する「お宝」だったのでしょう。





鯡漁場で大儲けした網元たちは豪奢な「鰊御殿」を競って建てた。
とくに小樽から積丹半島方面の海沿いには幾つもの鰊御殿があって、
今も残っているという。





最盛期には雇い人が200人を超える大鰊漁家だったと案内されました。
NHKの朝ドラ「マッサン」に登場したニシン御殿でも、
ニシン漁の栄華が捨てきれないでいる森野熊虎や、
当時のニシン御殿の様子が再現されていましたね。





以下、パンフレットの「鰊番屋」から、一部引用します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
気の荒いヤン衆の喧騒、大漁につぐ大漁、大いなる隆盛。
ニシンと共に運命を辿ったニシン番屋。そして今は昔。





明治から昭和にかかけて北海道西海岸の鰊漁は全盛を極めており、
とくに鬼鹿の海岸は千石場所とも言われ、
中でもこの地「天登雁村」の前浜一帯は鰊の群来(くき)と共に、
海の色は乳色に変わり、群れ飛ぶカモメと、
波間を渡るヤン衆の沖場音頭、
もっこ背負いの人の波で浜は沸きかえっておりました。





重要文化財に指定されたこの建物は明治後期、
当時の資産家、花田伝作氏によって建てられた。<中略>







俗に番屋と呼ぶ鰊漁家特有の平面構成となっている。
かつて一起し千両と謳われた鰊はすでに幻の魚となり、
ヤン衆のさんざめく声も絶えて久しく、
今はただ番屋のがその影を残し、
ヤン衆の息吹を今に伝えています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、
北海道の名付け親、松浦武四郎翁の像が建っています。
目の前にはかつては「宝の海」だった日本海が波立てて広がっていました。






 
古い木造の建築物風に建てられた、
「道の駅おびら鰊番屋」が併設されています。
国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、
北海道の名付け親、松浦武四郎翁の像が建っています。





交流ギャラリーの吹き抜けホールの壁一面には、
実際に使われていた大漁旗を掲げられていました。





特産品、土産品コーナーや、焼きにしん定食、
にしんそば等が味わえるレストランもあります。





2日目、次のハイライトは、
JR留萌本線の留萌-増毛間に乗車します。
この区間は2016年度中には廃線になると、
JR北海道が発表しています。詳細は既に別項で、
「JR留萌本線、廃線予定の留萌―増毛間に乗りました<上・下>」として、
2回に分けてレポを掲載してあります。

増毛の街歩きの後、岩崖が続く海岸線を幾つものトンネル通って、
今夜の宿のある小樽に向かいました。
車窓には日本海に落ちる真っ赤な太陽がずーッと見えていて、
小樽近郊に入るころにはすっかり暗くなっていました。
<次回は小樽歩きです>

日本海の北海道⑤ 日本海オロロンラインに沿って小平の鰊番屋まで

2015-11-10 10:20:17 | 国内旅行

旅の2日目は稚内から小樽までの日本海に沿って南下します。
ルートは「日本海オロロンライン」と言われる海岸道です。
稚内、天塩、羽幌、苫前、小平、留萌、増毛、石狩、小樽に至る日本海の道です。





バスは稚内の市内を抜け、サロベツ原野の中を走ります。
窓の外には幾つもの牧場が広がり牛が草を食んでいます。





閉鎖して牛舎だけ残っている牧場跡もかなり見られます。
厳しい現実が感じられます。





かつて酪農家のシンボルといわれた塔型のサイロが所々に放置されています。
代わって飼料をビニール袋で包む「ラップサイロ」が黒白の袋に入れられて置かれています。
牧畜北海道のシンボル・サイロはビニール袋に代わってしまっていることを知りました。

最初の休憩は天塩の道の駅「てしお」です。









次の休憩地は羽幌町の道の駅「サンセットプラザはぼろ」です。
オロロン鳥の生息地、天売島・焼尻島は羽幌町に属します。
バスの右側に広がる日本海は、かつてはニシンの漁場で栄えた海です。





甘エビの水揚げが日本一という町です。
ご当地グルメ「エビしおラーメン」が評判だと書かれていましたが、
残念ながら休憩時間があまりなくて食べられませんでした。
お土産用に2人分買ってきて家でつくりました。
まろやかな塩味が後に残り、昆布味とのからみがいい塩梅でした。





オロロンラインは天売島に住む海鳥オロロン(ウミガラスの別名)にちなんだものだという。
最近はめっきりオロロンの営巣が見られなくなって、
繁殖数も激減して危機状態になっているとガイドさんが説明してくれました。







窓の外は荒波の日本海です。





本日の最初のハイライト小平(おびら)町の「鰊番屋」に着きました。
<この項続く>

日本海の北海道④ 最北端の街へ・もう一つの岬、ノシャップ岬と最北の終着駅・稚内駅

2015-11-09 09:31:38 | 国内旅行


稚内公園の山を下って、もう一つ夕日の岬「ノシャップ岬」に着きました。
「夕日の岬」として知られています。





爺のついた時間は日没には、まだ時間がかなり残っている時刻でした。
灯台の脇からこれまで見たことがないような大きなカモメの一群が、飛び交っています。





海は一層、高波になっています。公園から見えた利尻連絡船が、
波間に見え隠れして進んでいきます。
ガイドさんまたつぶやく「この波では、観光の皆さん参っているだろうな」



日本最北端の駅にバスで到着しました。
駅の窓口で「最北端の駅到達」の記念証明と入場券を買いました。
道の駅「わっかない」も併設されていました。
鉄道の駅と道路の駅の同居・共存ですね。









隣りにある新鮮市場には「北の漁場」で水揚げされた、
カニ、タコ、サケ、礼文島の名産の礼文昆布などが並んでいました。







北海道遺産に登録されている「稚内港北防波堤ドーム」
波よけのために作られた高さ13.6メートル、総延長427メートルの大型防波堤で、
太い円柱と波の姿を思わせる曲線の連続する半アーチドームでで圧倒的な存在感で迫る。



かつて樺太(サハリン)へと渡る人のために、
稚内北埠頭が航路の発着場として使われていたとき、
道路や鉄道へ波がかかるのを防ぐ目的で建設された防波堤。



当時はドームの脇まで線路が伸びていて、
ドームの縁がホームになっていたとガイドさんの説明です。
昭和6年から11年にかけ建設された防波堤です。老朽化が著しかったため、
昭和53年から3年間、全面的に改修工事が行われ、景観がよみがったものです。

ドームの写真はフォトチャンネルにもアップしてあります。



市内へ戻りホテルに着くと西の空が赤く染まっていました。
ノシャップ岬で見たかった夕景です。



ロビーにはストーブが赤く燃えさかっていました。



夕食が終わるころには、ホテルの外は海鳴りを伴って烈風が音とを立てています。
海鳴りの音は一晩中やむことはありませんでした。
明日は小樽まで走ります。<この項続く>

日本海の北海道③ 最北端の街へ・稚内宗谷岬と稚内公園から港を一望

2015-11-07 10:17:26 | 国内旅行

「稚内」「宗谷岬」――小学校で日本地図を学んで以来、何度、何十回、この地名を目にしたり、聞いたりしたしたことでしょう。
「知っている」けれども、「行ったことがない」最果ての地。
「たにしの爺」喜寿を超えて、念願を叶えることになりました。
北海道の日本海側を宗谷岬・稚内から、積丹岬の神威岬まで南下して徘徊してきました。
寄り道した街の記憶を綴ってみます。

羽田発10時30分の稚内行き、ANA571便に乗ります。
久しぶりの国内便です。
保安検査を受けて出発ロビーに入ると何か、
海外空港のような異空間にいる不安感はありませんが、
それでも日常とは非なる空気感になります。

周りは同じ風体の日本人ばかりで、高齢者もいれば、
赤ちゃん連れの家族もいます。
それでも何か非日常の感覚を覚えてきます。
「よく知っている稚内」だけど「行ったことがない稚内」、
その「稚内」の文字が搭乗口に表示されています。



いつもはご近所の「梨畑」の道を徘徊している「たにしの爺」が、
飛行機に乗って北の果てに徘徊しに行くわけですから、
好奇な目付きになっても仕方がありませんね。

機内は観光ツアー客で満席状態です。窓から二つ目の席。
無事に飛び立ち日本列島の上空を北上、津軽海峡を越えました。
日本海が見えてきました。灰茶色のサロベツ原野の上を飛んでいます。
やがて利尻富士と礼文島が見えて、機は稚内空港に着陸しました。
予想していたほど寒くはありませんが風が強いです。





待っていたガイドさんと一行はバスに乗り早速、宗谷岬へ向かいます。
起伏のある壮大な牧草地が広がり、黒牛が点在して草を食んでいます。





なだらかな宗谷丘稜地帯の向こうに蒼いオホーツク海が見えてきました。
かすかにサハリンが浮かんでいるように見えます。





再生可能エネの象徴といえる風力発電のメガ風車群が遠望できます。
丘陵を走るバスの車窓から日本最北端の宗谷岬が見えてきました。





バスから降りれば、日本地図の天辺「最北端の地の碑」が目の前にありました。
幾度もテレビや観光案内で見慣れたものですが生で見るのは初めてです。
人が離れるまで待って、ようやく撮れました。
脇には樺太探検の間宮林蔵の立像もあります。
海辺を歩くと少し離れて「宗谷岬音楽碑」があり、メロディが流れます。
青いとんがり屋根のコンビニ・土産店の中にある最北端の郵便局で、
「到達記念証明書」を発行してもらいました。













ガイドさんお勧めの「タラのすり身」のスープをいただきました。
寒風の中、オホーツク海に舞う幾羽もの海鳥を、熱いスープを啜りながらも見ました。





オホーツクの海は蒼く、風が強く、波立っていました。
観光客がバスや車に入ってしまうと、周りには人がいなくなります。
幾つかの民宿が岬を囲むように並んでいます。
評判のいい民宿があると聞いていましたが、どの辺なんだろう。







郵便局の裏手にあった「流氷博物館」に入りました。
冷凍庫に入ったようなマイナス空間で2,3分で退散しました。



バスは岬から湾をぐるッと回って、稚内市内を通ってノシャップ岬を目指しました。
途中、市内と稚内の港を見下ろす丘の上の「稚内公園」に立ち寄りました。
日本海が一望できました。







稚内市のシンボルともなっている「氷雪の門」が立っています。このモニュメントは、
「樺太島民慰霊碑」で樺太への望郷の念と樺太でなくなった人々のために1963年に建立されたものです。
また、脇には「9人の乙女の碑」もあります。





1945年昭和20年8月、旧ソ連軍の侵攻により、自ら命を絶った真岡現ホルムスク郵便局の、
9人の女性電話交換手の慰霊碑です。
公園からは稚内の港と日本海が一望できます。日が落ちてきました。





利尻島へ向かう連絡船の最終便が白い飛沫を上げる波間に見えました。
ガイドさん「この波でも欠航しないで行ったんだ」とつぶやいていました。



利尻島観光は6,7月が花の季節で一番ですと勧めてくれました。
山を下ってノシャップ岬へ向かいます。
<この項続く>

日本海の北海道② JR留萌本線、廃線予定の留萌―増毛間に乗りました<下>

2015-11-05 15:40:34 | 国内旅行

前回は増毛駅まででしたので街歩きを綴ります。





駅前は割りと広く、大きな木造の3階建ての古い旅館が立っています。
ボランティア・ガイドさんの説明では2階、3階は危険なため、
立ち入り禁止となっているという。



隣りが高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケになった『風待食堂』です。
今は観光案内所になっていて、建さんの映画写真が並んでいます。
今週の7日・土曜の夜、NHKbsでこの映画が放映されるます。





ガイドさんとともに1時間ほど街歩きをしました。
増毛町の歴史は古く、北海道遺産に選定されたレトロな建物が立ち並び、
昭和で時が止まったかのような街並みが続いています。



そのほとんどがかつて、ニシン漁の豊漁で栄えてころの明治~昭和初期の建物遺産です。
ニシン漁の最盛期には4万トン(2億2000匹)の漁獲があったという。
獲れたニシンは食料用ではなく、肥料の鰊粕(にしんかす)として、
農家の主要な肥料となって全国に出荷されていたという。





最盛期に獲れた鰊粕はコメと同じ石高にすると100万石に相当すると言われ、
北前船が寄る港として栄え、裕福な網元には小説家や文化人が寄食していたという。
昭和27年からニシンが来なくなり、30年には全く獲れなくなり、
増毛はニシンと共に栄え、ニシンが姿を消すつともに衰退したということです。







今では高価な魚になった昆布巻きニシンや身欠ニシン、数の子として食料になっている。 
現在もボタンエビの漁獲高が日本一であり、
アマエビやタコなどの水揚げも多く、新鮮なエビが戴ける街で有名ですね。





街を歩くとマンホールの蓋にもエビとサクランボの模様が付いていました。
爺たちも「甘エビ丼とエゾあわび」の昼食になりました。 



また暑寒別岳からの伏流水を利用して酒造も行われており、
明治時代からある國稀酒造は日本最北にある造り酒屋だという。
町の背後にある暑寒別岳の裾野に広がる果樹園は、
最北端のフルーツの郷としても、観光に力を入れているようです。
サクランボ、もも、りんご、西洋梨などが収穫されています。
写真の梨は観光案内所で抽選に当たった本物です。



平成28年3月26日には、北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が開業します。
さらにその先の札幌までの伸延が決まっています。
新幹線が北海道まで延びる「光の部分」と廃止が予定される在来線の「影の部分」が交差する

観光客にとっては留萌・増毛間の線路がなくなるということは、
この街がますます遠い街になってしまう。
新幹線の速さと便利さはいいことですが、
「不便でなかなか行けない」ことが、
存在価値を上げることになるといいですね。

日本海の北海道①JR留萌本線、廃線予定の留萌-増毛間に乗りました<上>

2015-11-03 17:37:42 | 国内旅行

北海道の留萌駅―増毛間に乗る旅ツアーがあったので、
たにしの爺、10月下旬、徘徊の足を伸ばしてきました。



留萌本線は、函館本線の途中駅の深川駅から、
留萌市の留萌駅を経て、増毛郡増毛町の増毛駅を結ぶ、
全長66.8kmのJR北海道の鉄道線です。
末端部分の日本海に沿った留萌駅~増毛駅間16.7kmを、
2016年度中に廃止するとJR北海道が発表しています。



廃止の理由は「乗客の激減」「大幅な赤字」「災害」で、
年間1億6000万円以上の赤字が発生していると説明しています。



説明によると同区間の輸送密度(1日1kmあたりの平均輸送量)は、
1987(昭和62)年度は480人だったものが、2014年度は39人に減少した。
1列車あたりの乗客平均は、わずか3人の計算になるという。

ところがこの夏、JR北海道が、廃線予定を明らかにして以来、
消える鉄路を惜しみ、大勢の鉄道ファンが詰めかけているという。



日本海に沿って走るこの区間、
北島三郎の歌う「風雪流れ旅」に出てくる「留萌、滝川、稚内」の留萌駅があります。
そして、増毛は高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地の街です。
くしくも今週の7日(土)夜、この映画がNHKbsで放映されます。



留萌駅で乗車用と記念用の切符を買いました。
増毛駅は無人駅だというので「増毛駅」の入場券も記念に買いました。
留萌駅の待合室には往時のレトロな写真が展示されていました。



12時14分発の増毛行きのジーゼル列車が一両入ってきました。
車内は深川方面から乗ってきた人たちで空いている席はありません。
辛うじて右側席(進行海側)の通路寄りの席を確保できました。
運転席の後ろの空間にはカメラを構えた「撮り鉄」さんが大勢います。



窓側の青年もしきりにメモを取ったり、写真を撮っています。
途中駅は無人駅で乗る人もなく、停車時間も秒単位で発車します。
ホームに出て写真を撮る時間は全くありません。



爺も隙を見て何枚か撮りましたが、
ちょうど好くシャッター・チャンスが合いません。



かつてはニシンの群れで海面の色が変わったと言われた海、
今は静かなブルーの海で、ときたま舟屋の跡らしき小屋が見られます。
増毛の港湾施設が目に入ります。漁船も入っているようです。





終点の増毛駅のホームが見えてきました。着きました。
ツアーガイドさんが、「朝夕に通学生徒が乗るだけで、日中は一人も乗っていない。」
と話していましたが、この日は大勢の乗客が降りてきます。
到着列車と降車客を迎える撮影班やカメラマンが待ち構えていました。





「増毛駅 留萌本線終着駅」と書かれた駅舎が、ホームの先にありました。
その脇に、線路終結のポストがあり、レールはその先にはありません。





建てられてから83年の駅舎の待合室には、
駅を物語る数々の写真やポスターが貼られていました。
地産品の売店はありましたが、駅業務はされていませんでした。
 <この項、増毛の街歩きに続く>
10月下旬、宗谷岬の稚内から日本海側を南下し、
積丹半島の神威岬に至るルートをツアーで徘徊旅してきました。
このJR留萌―増毛区間乗車レポートを始めにアップしました。
以降、数回に分けて徘徊記録をアップしていきたいと思っています