石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(14)

2016-04-05 | その他

第1章:民族主義と社会主義のうねり

8.英雄ナセル:東西両陣営を手玉に取るアラブの星
 アラブ世界で誰しもが認める英雄と言えば12世紀にイラクのティクリートで生まれたサラディン(サラーフ・アッ=ディーン)であろう。彼はエジプトを征服してアイユーブ朝を創設、また英国王リチャード1世による第3回十字軍と戦った勇士である。この時十字軍側が捕虜を皆殺しにしたのに対してサラディンは捕虜を殺さなかった。このことから彼は敵味方を問わずに愛され、英雄として歴史に名を残している。

 サラディンから800年後の20世紀のエジプトに現れたナセル(ガマール・アブドゥル=ナセル)もアラブの英雄と讃えられている。サラディンが中世ヨーロッパのキリスト教十字軍と戦った英雄であったのに対し、ナセルはイギリスの保護国であったエジプトの王制をクーデタで打倒(1952年)、さらに西欧帝国主義国家の英仏を相手にスエズ運河の国有化を勝ち取っている(1956年)。

 1918年にエジプト地中海沿岸の都市アレクサンドリアに生まれたナセルは陸軍士官学校卒業後スーダンに赴任、1948年のイスラエル独立宣言を契機に始まった第一次中東戦争では少佐として従軍した。この戦争でアラブが致命的な敗北を喫すると(ナクバ・大災厄)、彼は反英愛国の将校組織「自由将校団」を結成、1952年にクーデタでファルーク国王を追放した。エジプトは専制君主制から共和制に移行したのである。

 この時まだ34歳であったナセルは大統領兼首相の座をナギブ将軍に譲ったが、1954年には権力闘争の末に自ら大統領に就任した。実権を掌握したナセルはその後汎アラブ主義を掲げエジプトをアラブの盟主の地位に押し上げる。汎アラブ主義は社会主義とアラブ民族主義が合体したものであり、その起源はシリアで生まれたバース党にある。汎アラブ主義はその性格上、英仏の植民地帝国主義あるいは米国資本主義と敵対する反面、ソ連社会主義に対しては親近感がある。

 権力を握り理想に燃えるナセルがまず目指したのがスエズ運河の国有化であった。スエズ運河は19世紀半ばにフランス人のレセップスの手で開通したが、当初から経営への介入を狙っていた英国は放漫財政に苦しむエジプトから運河の株式44%を取得している。その資金源はこれまで同様ユダヤ人のロスチャイルドであった。こうして第二次大戦後までスエズ運河の管理権は英国とフランスが握っていた。

 これに対してナセルはソ連のフルシチョフ書記長を味方に引き入れアスワン・ハイダムを建設、さらにスエズ運河の国有化を宣言したのである。英仏はこれに猛烈に反発、イスラエルを巻き込み第二次中東戦争が勃発した。戦闘そのものは軍備に勝る英仏イスラエル合同軍が主導権を握りイスラエルはシナイ半島を占領、スエズ運河は閉鎖された。アカバ湾突端の町エイラートは第一次中東戦争に続いて二度目の戦闘に巻き込まれ、戦争が終わってみれば周囲はユダヤ人ばかりでエジプト人たちは姿を消してしまった。エイラート郊外に住むパレスチナ人小作農のザハラ家は難民となり、8歳になった息子を連れて国境を接するヨルダンの港町アカバに逃れた。

 第二次中東戦争は開戦の端緒となったスエズ運河の名前を受けて別名「スエズ戦争」とも呼ばれているが、米国を含めた国際世論は英仏及びイスラエルに終始批判的であった。この結果、ナセルは戦闘に負けたものの外交で勝利し、これによりアラブ世界で一躍ナセルの名声が上がった。彼は東西いずれの陣営にも属さない第三世界の指導者の一人に祭り上げられるのである。当時の第三世界の指導者にはナセルのほか、インドのネール首相、中国の周恩来首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、インドネシアのスカルノ大統領などがおり、このうちナセル、ネール、周恩来、スカルノはアジア・アフリカの各国首脳に呼びかけ、1955年にインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催する。この頃がナセルの絶頂期であった。

(続く)

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