初出:2007.7.7
再録:2018.12.31
(第5回)アブドルアジズの治世後期:石油の発見と第二次世界大戦
中東で石油を最初に発見したのは英国のアングロ・ペルシャン石油(後のBP)で、1908年のイランであった。第一次大戦当時英国の海軍大臣であったチャーチルは早くから石油の軍需物資としての重要性に気付いていた。それまでの英国艦隊は石炭を燃料とする蒸気機関だったため各地に石炭と水の補給基地を必要としていた。英国がアジア各地の沿岸沿いに点々と植民地を建設したのはそのような理由もあった。しかし石油を燃料とするディーゼル・エンジンが開発されると、艦船の航続距離と行動範囲は飛躍的に大きくなった。このためチャーチルは中東の石油に目をつけたのである。
それは第一次大戦後の米国にとっても同様であった。アングロ・ペルシャン石油に続いて1932年には米国のソーカル社がペルシャ湾のバハレーンで石油を掘り当てた。そして同社は対岸のアラビア半島も有望な油田地帯であると判断し、アブドルアジズに石油利権の供与を申し入れたのである。当時サウジアラビア王国は建国されたばかりで、それまでの相次ぐ半島制圧戦争で財政的に疲弊していたため、アブドルアジズは5万ポンドの権利金前払いを条件にソーカルに期間60年の石油開発利権を与えた。ソーカル社の試掘は当初失敗の連続であったが、1936年、7本目の井戸で遂に油田を掘り当てた。それはサウジアラビアが石油大国となる嚆矢だった。
しかし当時の世界はヒットラーの台頭で戦争の暗雲が垂れ込め、1939年には第二次世界大戦が勃発した。このため石油が本格的に開発されるようになったのは戦後になってからである。サウジアラビアは第一次大戦同様、第二次大戦でも英米連合軍側についたが、中東そのものは大きな戦場となることはなかった。1945年2月、米国のルーズベルト大統領はヤルタ会談を終えたその帰途、スエズ運河に停泊させたクインシー号にアブドルアジズを招いた。船上会談は友好的な雰囲気の中で行われ、このときからサウジアラビアと米国の戦後蜜月時代が始まったのである。(写真はクインシー号上のアブドルアジズ国王とルーズベルト大統領)
具体的には1948年にアラムコ社(Arabian American Company)が設立され、米国主導による本格的な石油の開発が始まった。また軍事協力の面では1951年に相互援助条約が締結された。但し船上会談がもたらしたものはプラス面ばかりではなかった。ルーズベルト大統領は会談でナチスに迫害されたユダヤ人難民をパレスチナに入植させたいと提案したが、これに対してアブドルアジズは強く反対した。この問題はイスラエルの建国とその後の4度にわたる中東戦争を経て現在まで尾を引き、両国の間に今も大きな溝を作っているのである。
ともあれアラムコが開発した石油はサウジアラビアに大きな富をもたらし、アブドルアジズはその富を教育、インフラ整備などに投じた。例えば1950年代には、主要都市を結ぶ道路網の建設が始まり、1951年には首都リヤドと東部ダンマン間を走る鉄道も開通した。またアラビア半島の東西を結ぶ航空路、ジェッダ港の整備、電話網の拡充など国内開発が急速に進んだ。因みに国内航空路の開設はルーズベルト大統領がアブドルアジズに贈った1機の旅客機から始まったと言うエピソードがサウジアラビア国営航空の社史で語られている。
しかしアブドルアジズも寄る年波に勝てず、1953年11月、72歳でこの世を去った。後を継いで第二代国王に即位したのは彼の二番目の男子(長男は早世)当時51歳のサウド王子であった。
(続く)
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荒葉一也
Arehakazuya1@gmail.com