9/24 JOGMEC 東シベリアにおける探鉱事業の出資採択並びに伊藤忠商事及び国際石油開発帝石の参画について http://www.jogmec.go.jp/news/release/news_10_000041.html
9/24 国際石油開発帝石 ロシア連邦イルクーツク州における探鉱事業への参画について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130924.pdf
9/24 伊藤忠商事 東シベリアにおける石油・ガス探鉱事業への参画について http://www.itochu.co.jp/ja/news/2013/130924.html
9/26 東燃ゼネラル石油 東燃ゼネラルグループ、2013年度東燃ゼネラル児童文化賞・音楽賞 贈賞式を開催 http://www.tonengeneral.co.jp/news/uploadfile/docs/20130926_1_J.pdf
9/27 三井物産/丸紅他 ガーナ沖T.E.N.油田向け大水深対応FPSO傭船事業への三井物産、丸紅及び商船三井の参画、及び融資契約の締結について http://www.mitsui.com/jp/ja/release/2013/1201078_4689.html
・ロシアのヨーロッパ向け天然ガス価格2011年7月以来の安値。但しノルウェー減産、LNG輸入減でヨーロッパガス市場は売り手市場。 *
*「BPレポート解説シリーズ2013年版天然ガス編」P23価格参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0275BpGas2013Full.pdf
2013.9.24
孤高のアラビア石油
石油精製元売りの業界団体である石油連盟に対し、上流部門の石油開発業界には石油鉱業連盟(略称石鉱連)があった。加盟企業は100社以上であったが、先に述べたとおり殆どはプロジェクト会社であり会社としての体裁を成していたのはアラビア石油、帝国石油、石油資源開発及びインドネシア石油の4社だけだった。ただ各社の設立の経緯と歴史は大きく異なっていた。
帝国石油は日本石油や日本鉱業(共に現JXホールディングス)など明治時代から新潟及び秋田で原油の開発と精製を行っていた企業の上流部門が太平洋戦争末期に集約して生まれた国策会社である。戦後帝国石油は株式公開により民間企業となったが、海外での石油開発を禁じられたため国内で細々と生産を続けていた。
経済復興はしたものの「産業の米」とも言われる石油はメジャーと呼ばれる欧米石油企業に握られていた。因みに昨年ベストセラーとなった「海賊と呼ばれた男」はイランの石油国有化に対してメジャーが輸出封鎖した時、出光興産創業者の出光佐三がメジャーの裏をかいて自社のタンカー「日章丸」をイランに送り込み原油を直接買い付けたエピソードを小説にしたものであり、当時のメジャーによる石油支配の強固さを物語っている。
日本政府自らの手で原油を確保するため1955(昭和30)年に政府の全額出資で設立されたのが石油資源開発株式会社である。石油資源開発は技術者中心であり、地質、油層解析など学術的分野に多くの専門家を抱えていたが、それらを実証すべき開発現場が乏しいため宝の持ち腐れに近い状況であった。
何とか海外で石油開発を行いたいと言う政府の願望は、1966(昭和46)年インドネシア国営石油会社プルタミナと生産物分与契約を締結したことで実現した。この時、石油資源開発の100%子会社として設立されたのが「北スマトラ石油開発株式会社」である。同社は4年後に米国ユノカル社(現シェブロン)と共同でアタカ油田を発見、インドネシア石油と改名しアラビア石油と並ぶ超優良企業として歩み出したのである。
日本の石油開発の四社のうち帝国石油、石油資源開発或いはインドネシア石油の三社は上に述べたように国策に沿って設立された企業であり、特に後の二社は国有企業として発足している。これに対してアラビア石油はそもそものなれそめから純粋な民間企業として始まった。良く知られているように同社は稀代の起業家山下太郎が1958(昭和33)年にサウジアラビアとクウェイト両国政府から中立地帯沖合の石油利権を獲得したことに始まる。同年2月、日本興業銀行(現みずほ銀行)、東京電力など日本を代表する企業が株主となってアラビア石油が設立され、試掘第一号井でカフジ油田と言う世界的な巨大油田を掘り当てる快挙を成し遂げた。アラビア石油は欧米石油企業と組まず単独で油田の開発と生産にこぎつけ、日本の石油消費量の1割を持ち込み、設立わずか10数年後の1970年代後半には経常利益日本一に輝き同業他社を圧倒したのである。
当時のアラビア石油を同業の帝国石油、石油資源開発或いはインドネシア石油と比較すると、まず上場企業と言う点で石油資源開発、インドネシア石油と異なる。また石油の生産現場が海外である点で帝国石油或いは石油資源と異なる(両社は子会社を通じ海外で探鉱開発を行っていたが本格的な原油生産は日本国内に限られていた)。海外で油田の開発生産を行っている点ではインドネシア石油と同じであるが、同社の場合は米国のユノカル社がオペレーター(操業担当会社)でありインドネシア石油は出資割合に応じた原油を引き取るだけである。その点、アラビア石油は単独で操業し全量を日本に持ち込んでいる。さらに人的交流の面でも帝国石油など三社は互いに仲間意識が強かったのに比べ、アラビア石油はこれら三社とつかず離れずの関係で良く言えば独立独歩、悪く言えば唯我独尊の気風が強かった。
日本から遠く離れたアラビアの厳しい風土の中で原油を生産している日本一の高収益会社。そのイメージは社外だけでなく社員自身にも強く反映し、アラビア石油は孤高の姿勢を保っていた。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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9/18 国際石油開発帝石 オーストラリア イクシスLNGプロジェクト陸上ガス液化プラント建設現場(ダーウィン近郊)における建設作業員用の宿舎の開所式について(お知らせ) http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130918.pdf
9/19 JX日鉱日石エネルギー マレーシア・サラワク州沖における新規探鉱鉱区の取得について http://www.hd.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/post_11.html
9/19 石油連盟 木村 石油連盟会長定例記者会見配布資料 http://www.paj.gr.jp/from_chairman/data/2013/index.html#id651
1986(昭和61)年:広報課長 拝命
1985年に5年ぶりに帰国、元の部署に復帰した。本社で担当した業務に対応する現地部門に赴任し、5年の赴任期間(単身の場合は3年間)を終えると再び東京本社の元の部署に復帰するという会社のルールに沿ったものである。人事、経理、技術など他の部門も同様であり、例えば本社の人事部門で働いた者は現地の人事部門に赴任し再び元の人事部に戻ると言う寸法である。こうして多くの社員は3年乃至5年の周期で東京とサウジアラビアを往復することになる。
帰国一年後、思いがけなく広報課長に任命された。前任者がサウジアラビアに再赴任したためである。実は広報課は会社が前任者を処遇するために新設したものであり、従って二代目課長と言うことになる。前任者は現地で原油の出荷を担当していたため、帰任後は本社の営業部に戻ったが上層部と折り合いが悪く、本人の処遇に困った会社が広報課長のポストを創設したという訳である。
実際のところ課とは名ばかりで課長1名、課長代理1名、女性課員1名だけのミニ組織であり、社内報を発行することと新聞、雑誌など社外のメディアに対応することが仕事である。広報と言えば一般的に派手なイメージがあるが、アラビア石油ではむしろメディアに最小限度の顔しか出さないことが求められた。会社の唯一の商品である原油の販売先は精製会社に限られており企業広告を出す必要がないと言う論理である。
広報課が付き合うメディアにはメジャーとマイナーの二種類があった。メジャーなメディアは読売、朝日、日本経済新聞、NHKなどの大手報道各社である。彼らは石油精製企業の業界団体である石油連盟と同じビルに記者クラブを構えていた。一方、マイナーなメディアは業界紙と呼ばれ、石油タイムズ、油業報知など日刊紙の「開発記者クラブ」と石油文化、石油グラフなど月刊誌の「石油ジャーナリストクラブ」の二つがあった。
当時の石油業界は合併・再編を経た現在に比べて企業数が多かった。精製業界の頂点に立つのが「元売り」と呼ばれる企業であり、日本石油、三菱石油、共同石油(3社はその後数度の合併を経て現在のJXホールディングとなる)、昭和シェル石油、出光興産、コスモ石油などがあった。この他に東亜燃料工業(現東燃ゼネラルグループ)などの精製専業が数社あり、さらにアラビア石油が設立した富士石油のような石油化学コンビナートの原料供給を目的としたコンビナート・リファイナリーと呼ばれる精製企業が全国各地に7社あり、これらは業界団体「新石会」を結成していた。
以上の石油精製販売企業が「下流部門(ダウン・ストリーム)」と呼ばれる企業群である。これに対して石油開発事業を行う企業群が「上流部門(アップ・ストリーム)」であり、当時はアラビア石油、石油資源開発、帝国石油及びインドネシア石油(両社は後に合併し国際石油開発帝石、INPEX、となる)の四社が業界の中核であった。石油開発会社と呼ばれる企業はこの他100社以上あったのであるが、これらは石油開発のリスクを軽減するために石油公団(現独立行政法人「石油天然ガス金属鉱物資源機構」)が資金の8割を出資し個別の開発案件ごとに設立したプロジェクト会社であった。これらのプロジェクト会社は探鉱が失敗すると清算され石油公団の損金は国民の血税で補てんされる仕組みである。実際には殆どのプロジェクト会社は探鉱に失敗していたが、欠損を表面化させないため会社を無理矢理存続させるケースが続出、隠れた損失は雪だるまのように膨れ上がっていた。これらプロジェクト会社のトップは通産省(現経産省)の天下りだったこともあり「臭いものに蓋」式に問題は先送りされていた。
因みにこの年(1986年)、日本では社会党の土井たか子が日本初の女性党首となり、海外ではソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生している。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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