5/20 国際石油開発帝石 役員の異動に関するお知らせ http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130520-d.pdf
5/20 国際石油開発帝石 組織改編等について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130520-e.pdf
5/22 経済産業省 日本初・日本発の国際資源大会「J-SUMIT(国際資源ビジネスサミット)」を開催しました http://www.meti.go.jp/press/2013/05/20130522001/20130522001.html
5/22 Total Qatar Petroleum International (QPI) and Total seal a strategic partnership in Congo http://www.total.com/en/press/press-releases/consultation-200524.html&idActu=2988
5/24 JOGMEC 水封式地下岩盤方式のLPガス国家備蓄基地が開所 http://www.jogmec.go.jp/news/release/news_10_000008.html
5/24 JX日鉱日石開発 オーストラリア北西大陸棚フィヌケイン・サウス (Finucane South)油田の商業生産開始について http://www.hd.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/cat117/20130524_01_0920090.html
2013.5.22
利権契約終了まで残り15年
1985年1月、5年間の現地勤務を終えて東京本社に帰任した。サウジアラビアとの利権契約満了の2000年2月28日まで残すところ15年となった。
5年前に途中入社した時、会社から英文と和文を併記した利権契約書の冊子を支給された。サウジアラビア用及びクウェイト用の2冊である。契約書には会社が両国政府に対して負うべき義務と権利が詳細に記されており、会社の「バイブル」とでも呼ぶべき代物である。契約はアラビア石油の前身の日本輸出入石油がサウジアラビア政府と1958年1月に、またクウェイト政府とは同年7月に締結したものである。創業者山下太郎の契約締結までの2年間の苦闘、そしてその後のアラビア石油設立の成功譚は伝説として広く語り継がれており、これにより山下太郎は若き日の満州での活躍から付けられた渾名「満州太郎」に新たに「アラビア太郎」の名前を冠せられるようになったのである。利権契約締結の年、彼は既に69歳だった。私事で恐縮だが現在の自分と同じ年齢である。年金生活を送る自らと比べ山下太郎がいかに傑物であったか驚嘆を通り越して言葉が出ない。
それはともかくサウジアラビア政府との利権契約書によれば契約期間は「商業量発見宣言の日から40年間」と定められている。商業量発見と言うのは試掘井で油田を掘り当てたのち生産テストを行い、商業的に採算が取れる十分な量の石油が存在するかどうかを確認することを意味する。石油の試掘はリスクが大きく掘っても石油が出ないことも多いが、たとえ石油が出たとしても埋蔵量が少なく採算が合わない場合もある。後に触れるが1989年に筆者がマレーシアのボルネオで試掘に立ち会った時、石油は出たものの商業ベースに乗るだけの生産量が見込めなかったため撤退した苦い経験がある。現在の石油開発はIT技術のおかげで成功の確率が高いが、当時の石油開発事業は井戸を千本掘っても3本しか当たらないという意味で「千三つ屋」などと蔑称され「ばくち」に近いものであった。
ところがアラビア石油は1960年2月28日に最初の試掘井で世界第一級のカフジ油田を掘り当て、商業量発見を高らかに宣言したのである。従ってサウジアラビアとの利権契約の期間はこの日から40年後、即ち2000年2月28日までと決まったのである。因みにクウェイトとの契約では期間は契約締結の1958年7月から44年半であり、2003年1月が契約終了期限とされた。
利権契約が2000年までであることは1976年の途中採用の面接試験で告知されていた。会社の命が有限だと聞かされて驚かなかった訳ではないが、当時会社の定年が他社と同様55歳であり、自分にとって西暦2000年は定年後の話であるためさほど切迫感を感じなかった。むしろ2000年になってもまだ定年に達しない新卒入社の後輩たちの運命がどうなるのか、と老婆心ながら心配であった。
もちろんそれまでも会社は黙って手を拱いていた訳ではない。千葉県袖ケ浦に富士石油を設立し、日本国内に足場を築いたこともその一つである。ただアラビア石油の企業理念はあくまで海外における石油開発を本業とし、カフジに続く第二、第三の油田を獲得することであり、或いは事業の多角化により総合エネルギー企業に脱皮することであった。そのためノルウェー沖の北海、米国メキシコ湾、中国渤海湾などで石油探鉱を行い、アフリカのニジェールでウラン探鉱作業を手掛けた。しかし結果的にはいずれの事業も軌道に乗らず、会社にはカフジ油田が残されただけであった。会社が21世紀以降も生き残る手立ては利権契約の延長しかないことが誰の目にも明らかであった。しかし経営陣にも社員にも(自分自身も含めてであるが)切迫感は乏しく、相変わらずのんびりしたムードが漂っていた。
それは中味が半分ほど残ったワインボトルの話にたとえることができよう。のんびり者の楽観論者なら「未だ半分残っている」と言い、焦燥感に駆られた悲観論者なら「あと半分しかない」と言う。どちらの言い分も正しい。アラビア石油の経営陣も社員もその多くは楽観論者であった。
(続く)
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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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5/13 石油資源開発 インドネシア共和国アチェBlock A鉱区での天然ガス産出テスト成功のお知らせ http://www.japex.co.jp/newsrelease/pdf/20130513_20130513_BlockA.pdf
5/14 出光興産 役員異動に関するお知らせ http://www.idemitsu.co.jp/company/news/2013/130514_2.pdf
5/14 出光興産 機 構 変 更 の 件 http://www.idemitsu.co.jp/company/news/2013/130514.pdf
5/14 コスモ石油 組織改定のお知らせ http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130514_3/index.html
5/14 コスモ石油 役員の異動について http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130514_2/index.html
5/14 国際石油開発帝石 インドネシア共和国ババルスラル鉱区権益の一部譲渡について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130514.pdf
5/15 東燃ゼネラル石油 米エンタープライズ社とのLPガス購入に関する新規複数年契約の合意について http://www.tonengeneral.co.jp/news/uploadfile/docs/20130515_1_J.pdf
5/17 三菱商事 米国産LNG輸出に向けた取り組み http://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/pr/archive/2013/html/0000021480.html
5/17 三井物産 米国産LNG輸出プロジェクトで天然ガス液化加工契約及び合弁会社設立契約を締結 http://www.mitsui.com/jp/ja/release/2013/1200341_4689.html
2013.5.16
休暇と家族旅行(1980-84年)
初めての海外赴任であり、しかもアラビア石油の社員しかいないカフジでは他社駐在員と比較のしようが無いが、酷暑の砂漠での仕事と日常生活が苛酷であったことだけは間違いない。商社のように世界各地に事務所を持つ企業では、それぞれの任地の生活条件の厳しさに応じて「ハードシップ手当」と呼ぶ特別手当を支給しているが、サウジアラビアでの駐在は最高レベル(即ち生活環境としては最低)と評価されていた。
そのような中で唯一の楽しみと言えるのが年一回与えられる休暇であった。休暇の条件は彼の地の石油開発の先達であるアラムコ(現サウジアラムコ)社に合わせたものであり、期間は45日、家族全員の日本までのエコノミー運賃が支給された。この点は一般の日本企業に比べかなり好条件であった。社員は一年のうちの10ヵ月半は仕事に専念し、残る1ヶ月半の休暇を満喫するのである。目的地は本人と家族で自由に決めることができた。
最初の年の休暇はイタリア、パリ、スペインであった。クウェイトからローマまでの飛行時間は5時間程度であり家族連れで行くには手ごろな距離である。旅程は自分たちで決めて旅行代理店で切符を手配、ホテルは行く先々の空港の案内所で予約し、レンタカーを借りて観光地を巡った。この初めてのヨーロッパ家族旅行は今でも訪れた土地の隅々を鮮明に思い出せるほど印象深いものであった。余り英語が通じないヨーロッパ(こちらの英語の問いかけに解らぬふりをするほどの英語嫌いのフランス人も少なくなかった)で、道標を頼りにレンタカーを運転するなど今にして思えばかなり無謀なことであったが、30代半ばの若さが怖いもの知らずの蛮勇を奮わせたのであった。
翌年の休暇は義母とロンドンで落ち合い、三世代5人でロンドン、パリ、ローマに遊んだ。義母からは年に何度となく娘たちに日本の玩具、菓子、子供雑誌を送ってもらっており、そのお礼の意味もこめて足腰の元気なうちにとヨーロッパ旅行に誘ったのである。三年目の長期休暇は当時日本人社員の間で人気のあった世界一周ルートを利用した。KLMオランダ航空とシンガポール航空の提携便を利用しての世界一周であった。まずヨーロッパに立ち寄り、その後ニューヨーク、ロスアンゼルスを経由して日本に一時帰国した。日本では二年ぶりに親戚への挨拶回りをし、また育ち盛りの子供たちのための洋服や靴などを大量に買い付けた。色柄、サイズ、仕上がりなど現地の製品は身に合わないからである。その後、東南アジアで休暇の最後を楽しんだ末に1ヶ月半の休暇を終えてカフジに戻った。
本社帰任が決まった1984年末には最後の旅行としてシンガポールで大晦日を迎え、夏のオーストラリアでコアラとカンガルーに戯れ、ニュージーランド経由1985年1月早々成田に降り立った。外気は寒かったが長い赴任生活を終えてホッとした気分であった。
この年日本では東北新幹線が盛岡まで開通、上越新幹線も全線が開通した。
(続く)
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2013.5.13
イスラム世界の日常生活(1980-84年)
1980年からの丸5年間をサウジアラビアで過ごした。サラフィー(ワッハーブ)主義を奉じるサウジアラビアはイスラムの中でも特に戒律が厳しい。1日5回のお祈りとラマダン月の断食などはいずれのイスラム国家にもある生活習慣だが、ここはさらに厳しい教えが課された世界である。女性は家族以外の者に素顔を見せてはならず、外出はままならず運転もできない。その他先進国では普通のことが全てダメ尽くしである。
幸か不幸か社宅は高い塀で外部と隔離された租界地であった。塀の中では女性達も自由に闊歩できる。しかし一歩塀の外に出る場合、女性は黒いスカーフと黒いベールで素肌と頭髪を隠し、夫の運転で出かけなければならない。「塀の中」が自由で「塀の外」が不自由と言う全く逆の世界なのである。社宅の中には売店が無く食料品や日用品の買い出しは週末の大事な仕事である。しかし街の商店の品揃えは貧弱なため月に一度はクウェイトまで一家で出かける。往路帰路の2回国境検問所を通過するので丸一日がかりである。それでもクウェイトには子供が喜ぶキティ・グッズの店があり、ホテルのレストランの中華料理に舌鼓を打つことがこの上ない気晴らしであった。
何もない僻地での楽しみと言えば食べることと飲むことであるが、イスラムでは豚肉と酒が禁止されている。イスラムに限らず多くの宗教では肉や酒或いはそのどちらかが禁止されていることが少なくないが、それは聖職者或いは信者自身に対するものである。ところがサウジアラビアでは異教徒の日本人や西欧人にも強要する。隣国のドバイやバーレーンではホテルで酒を飲むことができ、また筆者がその後赴任した東南アジアのイスラム国家マレーシアでも豚肉やアルコールは自由であった。しかしサウジアラビアは外国人に対しても厳しい戒律を課したのである。
やむを得ず牛肉や鶏肉を豚肉の替わりとしたがアルコールは替わるものが無い。これには殆どの日本人が弱り果てた。しかし「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」である。イラクから砂漠の国境を突破し(長い国境線にはフェンスなどなかった)、或いはペルシャ湾のダウ船でどこからともなく箱詰めのスコッチウィスキーが深夜ひそかに運び込まれる。但し密輸のリスクがあるためバカ高い。空港の免税店ならせいぜい2千円止まりのジョニ赤が1本1万円以上である。しかもいつ入荷するかはそれこそ「インシャッラー(アラーのみ知り給う)」であった。
そこで先人が考えたのはアルコールの密造である。方法はいたって簡単。20リットルのポリタンクを砂糖水で満たし、そこに製パン用の粉末イースト菌を入れる。20日ほどで発酵しアルコール液となる。但し匂いが強く、また有毒のメチルアルコールも混在しているためそのままでは飲めず、圧力釜で蒸留しなければならない。何度か繰り返し蒸留して最後に100%のエチルアルコールを抽出する。これが現地で「カフジ正宗」と称していた密造酒である。この無味無臭の酒を水や氷で適度に薄めて飲むのである。
世界の酒が好きな時に好きなだけ飲める日本からみれば何ともいじらしい努力ではあるが、日本人のコミュニケーションには酒が欠かせない。想像を絶する過酷な自然の中、アラブ人を相手に日中砂を噛むような仕事に明け暮れていると、夜は仲間を囲んでアルコールで憂さ晴らしをしなければ、明日への意欲が沸かないのである。
日本を出る時、赴任期間は単身3年、家族帯同5年と聞かされ覚悟はしてきたものの、やはりその月日の永さは身にこたえる。殆どの社員は残り1年を切ると帰国の日を指折り数えるようになるのであった。
(続く)
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