第6章:現代イスラームテロの系譜
9.混迷深まる中東
第二次大戦後の中東はアラブとイスラエルが対立する世界であった。そこでは敵と味方の区別が明らかであり、民族も文化も異なるが宗教(イスラーム)が同じであるアラブ、イラン、トルコの敵はイスラエルのみであり、お互いは味方同士であった。そして米国はイスラエル(敵)の味方であるため、アラブ・イスラ-ム圏は米国を敵とみなした。即ち敵の味方は敵なのである。但し米国は遠く離れているため、シャー体制のイランのように中東一の親米国となる国がある一方、ナセル体制のエジプトはソ連になびいた。
敵、味方の構図を一変させたのが四次にわたる中東戦争におけるイスラエルの圧勝であり、さらにその後のイラン・イスラム革命であった。イスラエルの圧勝によりアラブ諸国内にはエジプト、イラクなどの世俗軍事国家とサウジアラビアなど専制君主国家との間に緊張が生まれた。さらにイラン革命でホメイニ体制のシーア派の政教一致国家が生まれると、スンニ派が実権を掌握するイラク及び湾岸諸国とシーア派のイラン及びシリアとの宗派対立が表面化した。問題を複雑にしたのがイラク及び湾岸王制国家のバハレーンでは少数派のスンニ派が多数を占めるシーア派住民を支配していることであり、他方シリアでは少数派のシーア派アラウィ教徒のアサド(父子)がスンニ派とクルド民族を抑え込んで実権を握るという少数派と多数派の逆転現象が発生したことである。
その結果イラン・イラク戦争はアラブ人対ペルシャ人(イラン)という因縁の民族的対立に加えシーア派対スンニ派という宗派対立の構図が炙り出され、君主制の湾岸諸国が世俗国家イラクを後押しする羽目になった。これに対してイランはシリアを側面支援してレバノンを舞台にシリアとイスラエルの代理戦争を演出、さらにイラク及び湾岸諸国のシーア派住民を使嗾して各国の体制に揺さぶりをかけたのであった。加えてホメイニ憎しの米国は民主主義の理念を棚上げして独裁国家イラクを支援した。
こうして中東地域ではイランとイラクが直接敵対する関係になり、湾岸諸国にとって味方(イラク)の敵(イラン)は敵という訳であり、中東イスラームという一つの地域の中に敵と味方が混在する構図となったのである。かつてのイスラーム諸国対イスラエルという単純な二項対立が宗派を介して複雑化した。逆の立場のイランにとっても同じことがいえる。即ち味方(シリア)の敵(イスラエル)は敵であり、敵(イラク)の味方(サウジアラビアなどの湾岸諸国)は敵である。そして奇妙なことにサウジアラビアにとってイラン、シリアの敵であるイスラエルはこれまで通りやはり敵なのである。
中東戦争まではアラブ・イスラーム対イスラエルの2項対立であったものが、イラン・イラク戦争時代には3項或いは4項対立の様相を呈した。敵の敵が味方か敵か、はたまた敵の味方が敵か味方か、判然としなくなったのである。但し対立は重層化したものの、敵か味方かの区別は国家単位であり、それぞれにとって誰が味方で誰が敵かははっきりしていた。
しかし対立が一つの国家内での政府と反政府組織の軍事的対立となったとき、他国がどちらに肩入れするかで敵と味方の区別がつきにくくなる。まして反政府組織が分裂したり、同床異夢の寄り合い所帯であったりすると問題が複雑になる。IS(イスラム国)が従来の国境を無視して国家樹立を一方的に宣言し、加えて超大国の米露や地域の大国であるイラン、トルコ或いはサウジアラビアがそれぞれの思惑で政府或いは反政府組織に介入すると問題は多項方程式を解くように際限もなく複雑化する。それこそが現在のシリアなのである。
(続く)
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荒葉一也
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第6章:現代イスラームテロの系譜
8.短かった春の宴
「アラブの春」を欧米先進国(特にメディア、インテリ層)は中東・北アフリカ諸国における独裁者の圧政に対する住民の抵抗運動、政治の民主化運動と定義づけた。「春」という言葉が持つ肯定的で開放的なニュアンスを政治の場面で使ったのは、冷戦下のチェコの民主化運動「プラハの春」が多分初めてであろう。それはソビエト共産主義の圧政に対する抵抗運動を象徴する言葉となり、西欧のメディアはこの言葉に自己陶酔した。1968年の「プラハの春」はソ連の介入によりあえなく踏みにじられたが、21年後には同じチェコで「ビロード革命」が発生、翌年には東西ドイツ統一が実現して、西欧諸国は自分たちの信奉する民主主義が絶対的に正しい思想(イデオロギー)であり、「プラハの春」はその先駆けであったと確信したのである。
プラハの春のひそみに倣い西欧諸国は「アラブの春」も必ず成功すると信じて疑わなかった。しかし「アラブの春」がそれ以前よりさらに劣悪な混乱と停滞を各国にもたらしたことは否定しようがない。大きな変革の直後には更なる変革を求める勢力と古き良き時代の復活を求める両極端の勢力が激突し、混乱が発生するのは歴史の習いである。チェコの民主化運動が成就するのに20年以上かかったことを考えれば、「アラブの春」の歴史的評価を下すのは早すぎるかもしれない。今から20年後のアラブ諸国はひょっとして西欧型の民主主義国家に変貌しているかもしれない。それはまさに「インシャッラー(神のみぞ知る)」である。
しかし「アラブの春」を現状なりに評価することも意味のないことではなかろう。筆者の持論である中東の三つのアイデンティティ、即ち「血(民族)」、「心(信仰)」及び「智(イデオロギー)」をベースに「アラブの春」を経験した国、経験しなかった国を含め、アラブ圏各国について眺めてみるといろいろなことが見えて来る。
エジプトの場合、チュニジアで「ジャスミン革命」が成就したとほぼ同時の2011年1月、カイロのタハリール(革命)広場で学生を中心とするデモが発生した。SNSでデモ参加を呼びかける若者たちの声に応じてデモは規模を拡大しタハリール広場を埋め尽くすようになった。彼らは旗を振りムバラク大統領の退陣を求めるシュプレヒコール「ファキーア(もう沢山だ)!」と叫んだ。ムバラク大統領の出身母体である軍の治安部隊は最初のうち動かず、現場の警察官もデモ隊にむしろ友好的な雰囲気ですらあった。実のところ彼らも大統領に「ファキーア」だったのである。
世論に抗しきれなくなったムバラクは2月に大統領を辞任し、その後不正な財産蓄積の容疑で逮捕され刑務所に収監された。その間もデモは続き国家機能がマヒしたため、平穏な生活に戻ることを求める一般市民の声も無視できず治安部隊はデモ隊の解散を求めた。この頃の若者のデモ参加者たちはムバラク退陣を勝ち取った成果でユーフォリア(熱狂的陶酔)状態にあったが、次に何を成すべきかについては明確なビジョンが無かったり或いは意見が分かれていた。
このような一般市民と学生の意識のずれの隙に割って入り存在感を示したのがムスリム同胞団であった。同胞団はムスリム(イスラーム教徒)の互助組織として市民生活にすでに深く根を張っていたが、自由な総選挙の実施が決定されたことを受けて政治組織「自由公正党」を立ち上げ政権奪取を目指した。これに対抗して学生や知識人たちはリベラル政党の樹立を目指した。
しかしリベラル運動の理論家はムバラク政権時代は西欧に亡命し、そこでの自由で安全な生活に慣れ切っていた。彼らは頭でっかちのインテリであり、エジプト国内で圧政に苦しむ一般市民とは意識のずれが大きく団結した組織をつくれなかった。SNSの威力を過信した学生たちもまた大規模なデモ動員こそ可能だったものの結局国民全体を動かす力にはなりえなかった。学生たちは組織力と実行力のあるムスリム同胞団が主導権を握るのを見て、「革命を乗っ取られた」と嘆いた。チュニジア青年の焼身自殺をSNSで広め「アラブの春」の運動をリードしてきた若者たちであったが、欧米では当たり前の民主主義という「智」のイデオロギーがイスラーム社会には根付いていなかったのが原因であろう。中東アラブは今も部族(血)とイスラーム(心)が支配する世界である。
エジプト史上初めてと言われた公正な選挙で圧倒的支持を得たムスリム同胞団の自由公正党であったが、ムルシ大統領の時代はわずか1年余りしか続かなかった。政治経験の殆どないムルシは経済運営で失政を重ね、さらに同胞団の身内を重用する縁故政治で国民の心はムスリム同胞団からすっかり離反した。再び若者のデモが続発し騒然となった。大衆はわずか一年前に自らが選んだ大統領を引きずり下ろし、あろうことか軍政への回帰を選択したのである。軍最高司令官のシーシはクーデタを敢行、ムルシを解任した。ここにエジプトは強権的な軍政に復帰、エジプトの「アラブの春」は2年で終わった。国民はシーシを熱烈に歓迎し、欧米民主主義国家を含めた国際社会もアラブの盟主エジプトの政治と経済が安定することを歓迎したのである。
エジプト以外の中東各国の「アラブの春」はさらに短かく、むしろその後混乱と無秩序のカオスに陥った例の方が多いくらいである。リビアではカダフィが倒れた後、大量の武器が闇市場に流れ、国内の部族同士の内戦に発展した。またイエメンではサウジアラビアの仲介でサーレハ大統領が退場し、ハーディー暫定大統領のもとに新政府が発足したものの、部族社会のイエメンではフーシ派勢力が勢いを増し、サーレハ元大統領も加わって首都サナアを占拠した。ハーディー政権はアデンに逃れ、サウジアラビアなどのアラブ連合軍の空爆作戦で何とか命脈を保っている状態となり、国際社会の平和の基準からはリビアと共に失敗国家の烙印を押されている。
「アラブの春」が失敗国家に終わった例はシリアがその最たるものであろう。同国ではアサド政権、IS(イスラム国)勢力、スンニ派反政府勢力等が四分五裂し、そこに国際社会の勢力争いも絡みまさにくんずほぐれつの覇権争いを繰り広げている有様である。
「アラブの春」とは一体何だったのかという議論が絶えない。否、むしろ「春」などと言う甘味な言葉が誤解を招いたといって良いのかもしれない。欧米諸国は「春」という言葉に自分たちが信じるイデオロギー「民主主義」を重ねた。彼らは民主主義こそ現代社会の唯一絶対に正しいものだと主張する。仮にそうだとすると彼ら欧米諸国は絶対的(と自分たちが信じる)価値を押し付け、世界各国が有する多様な価値を否定していることにならないだろうか。
ともかく今言えることは「アラブの春」は短い宴の春だった、ということである。
(続く)
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荒葉一也
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イラクのフセイン政権崩壊後もアラブ諸国の多くは強権的な独裁国家或いは世襲の君主制国家のままであり、西欧型の民主主義国家と言えば北アフリカのアルジェリア、中東のレバノン及び米国によってフセイン政権が叩きのめされ民主化にもがいていたイラクだけと言っても過言ではなかった。リビアのカダフィ政権、シリアのアサド政権、イエメンのサーレハ政権、エジプトのムバラク政権、チュニジアのベン・アリ政権はそれぞれ30年前後もの間独裁政権を続けていた。
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